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東北大病院100年

医療・健康・介護のニュース・解説

第1部 医師(3)浜への愛 生き続ける…へき地医療18年 富永忠弘(1927~2013)

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診療所の前で笑顔を見せる富永さん(剛さん提供)

診療所の前で笑顔を見せる富永さん(剛さん提供)

 石巻市・牡鹿半島の寄磯浜。人口約350人の小さな漁村には、今も読み継がれている冊子がある。「一病息災 浜でも里でも」。寄磯診療所の所長だった富永忠弘が、旧牡鹿町の広報に寄せたコラム集だ。

 「一家に1冊。気になることがあれば、パラパラめくるんだ」。漁師で地元区長の渡辺洋悦(ようえつ)(63)は語る。

 「歩け歩けの生活習慣を」「水分はたくさんとろう」。冊子には、当たり前の病気の予防法が並ぶ。だがそれは、富永が医者人生最後の18年で、医療過疎地の人びとに伝えたいことだった。

 東北大病院で内科医として勤務し、同大教授や仙台オープン病院の院長を務めた富永は67歳だった1995年、医師の募集に応じて診療所にやって来た。「そんな偉い先生が何で寄磯にって、みんな驚いた」と渡辺は振り返る。

 富永は直前に膀胱(ぼうこう)がんが見つかり、余命1年と宣告されていた。妻の洋子(82)は「絶対にやめてください」と懇願したが、「へき地医療は若い頃からの夢」と曲げなかった。石巻の開業医の家に生まれ、都市部の大病院に勤めるなか、医療格差の現実を思い知らされていったという。

 日曜の夕方、仙台市の自宅から車で寄磯に向かう。自炊しながら木曜の昼まで診療し、仙台に戻る。寄磯では畑を耕し、野菜を患者らに配った。がんは手術し、再発することはなかった。

 「薬や注射に頼り過ぎちゃダメだよ」。看護師として支えた佐々木美智子(58)は、口癖のように患者を諭していた富永の声が印象深い。「運動や食生活の改善で健康に暮らせるようにすることが、医療のあるべき姿だと先生は考えていた」と話す。

 渡辺の母・あい子(83)も富永の教えを聞いた1人だ。高血圧で診療所に通った。「体を動かすことが秘訣(ひけつ)」と言われ、なるべく歩くようにすると、血圧が下がった。「先生のおかげだべな」

津波で流された診療所に残ったスロープに座る渡辺さん。「年寄りの集会所みたいだったな」(石巻市寄磯浜で)

津波で流された診療所に残ったスロープに座る渡辺さん。「年寄りの集会所みたいだったな」(石巻市寄磯浜で)

 震災で海沿いの診療所は跡形もなく流された。80歳を超えていた富永は、仙台の自宅で「寄磯が心配だ」と何度も口にした。周囲の反対をよそに、診療所の跡地を訪れたのは約1か月後。同行した長男の剛(58)は、杖(つえ)を手にカルテの残骸を拾い集めた父の姿が忘れられない。「寄磯を心から大切に思っていたんだ」と感じ入った。

 診療所は2011年秋、高台に建てたプレハブで再開された。富永も一線に戻ったが、体調を崩して13年4月から休み、帰らぬ人となった。

 「診察が終わったらみんなとたばこ。俺の親父(おやじ)とよく酒も飲んでた。もっと長生きしてほしかったな」と渡辺。あの時、反対した洋子も、今は夫の思いが分かる気がする。「仕事と寄磯の人たちが大好きだった。みなさんに支えられて、いい人生を送らせてもらえたと思う」

(敬称略)

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