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佐藤記者の「新・精神医療ルネサンス」

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ストレスチェックは成功するか(後編)

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 ストレスチェックの2015年12月導入を控え、試験的にストレスチェックもどきを実施する会社が増えてきた。本番に向けて着々と準備を進める姿勢は立派だが、このような会社の中には、制度がもう始まっていると誤解するような情報を社員に流したり、「全員が受検する必要がある」などのメールを送ってストレスチェックもどきを強要したりするケースがあり、早くも不信感を募らせる人が増えている。

 前回も書いたが、本番のストレスチェックも社員に受検の義務はない。厚生労働省は「労働者にストレスチェックを受検する義務はないが、制度を効果的なものとするためにも、全ての労働者がストレスチェックを受検することが望ましい」との立場だ。この制度は、うまく回れば社員の利益になるはずなので、会社はまず、社員に制度の目的や職場改善の具体案などを分かりやすく伝え、理解を得た上で受検を呼びかけるべきだろう。ところが、納得できる説明もなしに、いきなり電子メールや文章を送って「受けなさい」では、拒否したくなるのが人情というものだ。まだ始まってもいない段階で会社の威光をちらつかせ、社員にプレッシャーを与えるケースが出現するとは、先が思いやられる。

 この制度の導入にあたっては、産業医の質の確保が強く懸念されている。日本医師会認定の産業医は9万人と多く、仕事の柱の一つに 職場巡視 がある。ところが「産業医の姿は職場で一度も見たことがない」と首をひねる社員が多い。第一線を退いたベテラン内科医らが、バイト感覚で産業医を引き受けているケースもあり、このような産業医の中には「ストレスチェック制度が始まると、責任が重くなるのでやめたい」と漏らす人もいる。

※ 職場巡視
 労働安全衛生規則第15条は「産業医は、少なくとも毎月一回作業場等を巡視し、作業方法又は衛生状態に有害のおそれがあるときは、直ちに、労働者の健康障害を防止するため必要な措置を講じなければならない」としている。

 

メンタルヘルスに対応できない産業医

 歴史を遡ると、産業医はかつての工場法(1911年公布)のもとで生まれた工場医(1938年、常時500人以上の工場に選任義務づけ)を起源としている。当時の工場は結核が流行し、放置すると軍需産業に影響が出て軍事力が低下し、列強に対抗できないとの考えが大本にあった。そのため工場医は工場内で活動し、健康診断などによる結核予防、職場巡視による衛生管理、業務上の傷病治療などを行って戦時体制を支えた。戦後、工場法と工場医は廃止され、代わりにできた労働基準法のもと、医師を中心とした「衛生管理者」の選任が職場に義務づけられた。産業医という呼び名や仕事内容は、1972年公布の労働安全衛生法で初めて規定された。

 このように、産業医は工場労働への対応を背景に誕生した。ところが近年、快適な室内でパソコンに向かう仕事が増え、このような職場の問題はメンタルヘルスに移行した。だが、十分に対応できる産業医は乏しく、精神科につなげた社員が薬物一辺倒の「治療」でかえって慢性化し、復職支援のかいもなく職場から遠ざかるケースが続出した。

 こうした流れの中で、ストレスチェックが導入される。現役の産業医が戦々恐々とするのは無理もない。職場のメンタルヘルス対策に力を入れてきた希少な産業医も「すでに手いっぱいの状態。ストレスチェックの仕事が更に加わったら、とても対応できない」と悲鳴を上げる。メンタルヘルス対策にも対応できる質の高い産業医の増員は急務で、今年中に頭数がそろわなくても、国や学会が専門研修などを充実させ、着実に底上げを図ることが欠かせない。産業医の仕事を会社の内外から支える仕組みも必要になるだろう。

 

ストレスの高低をなぜ隠すのか

 個人情報が簡単に漏れるこの社会では、情報管理に対する懸念もある。ストレスチェックの個別結果は、本人の同意がなければ会社には知らされない。だが、産業医ら実施者の事務仕事をサポートするため、会社関係者が「実施事務従事者」を務めることができる。社内で監督的立場にある人は従事できないなどの制約があり、実施事務従事者には秘密の保持義務が課せられる。だが、口の軽い人はどこにでもいる。この制度に詳しい産業医は「漏れるでしょうね。特に小さな会社ほど危ない」とみる。個人情報のダダ漏れや個別結果の人事利用が発覚したら、この制度は根底から揺らぐだろう。

 しかし逆の視点もある。そもそも「ストレスの高低」は、隠さなければならないほどの重大情報なのだろうか。「高ストレス=精神疾患予備軍や精神疾患」ではないし、「高ストレス=メンタルの弱さ」でもない。このチェックで分かるのは「職場で強いストレスを受けている」「放置すると心身の病気につながるかもしれない」という可能性だけだ。ストレスチェックを先行導入した会社の中には、健康診断と同様に行っていたこのチェックで高ストレス者をいち早く把握し、職場改善などの対策を講じて状況を好転させてきたところもある。それなのに、ストレス秘密主義の原則を貫くこの制度の導入で、「かえって会社の対応が遅れるのではないか」と不安視する声も上がっている。

 秘密主義によって「高ストレス者はやばい」という誤ったイメージが広まり、深刻なストレスを抱える人がかえって受検しなかったり、程度を偽って答えたり、面接を受けなかったりする心配もある。深刻な結果が出ているのに面接を希望しない人に、結果の秘匿を重視するあまり、産業医が何も手を打てなくなる恐れもある。ある産業医は「社員を守るためには、時に守秘義務を破って本人や会社に直接働きかける度胸を持つことも必要だ」と語る。

 ストレスチェックの質問項目は簡潔で、どのようにチェックすると高ストレスになるか丸分かりという問題もある。受検者のうち10%程度が高ストレス者になると想定されるが、自ら望んで「高ストレス者」になろうとすれば、だれでもなれるのだ。上司に一方的な恨みを募らせた社員が、憂さ晴らしのために高ストレス者になることは当然起こりうる。自らの問題は差し置いて、ストレスばかり主張する社員の希望を優先してしまったら、ほかの社員が不満を募らせ、ストレスをためることになる。これまでも「(新型)うつはなったもの勝ち」などのしらけた言葉が多くの職場で飛び交ってきた。「高ストレスは言ったもの勝ち」にならないように、産業医や人事担当者は冷静な判断が求められる。

 

存在意義問われる精神科

 厚生労働省は、この制度の目的をあくまで「1次予防」と主張しているが、そこに責任逃れのニュアンスを感じたりもする。この制度を始めれば、面接を経て精神科につながる社員が数多く出ることは当然予想されるからだ。ストレスチェック対象者の膨大な数と、産業医の非力な現状から考えると、万単位の高ストレス者が精神科や心療内科にあっさりつながっても不思議ではない。働けていた社員を精神科につなげたばかりに、休職が異様に長引いたり、復職と休職を繰り返して結局やめていったりするケースがますます増えたらどうするのか。会社から貴重な戦力が次々と失われる惨状が拡大すれば、精神科はかつてないほどの批判にさらされるだろう。そうなれば、ストレスチェック制度を推進した厚生労働省も非難は免れない。

 今年3月、この制度づくりに関わった産業医大名誉教授(精神科医)の中村純さんが、ストレスチェック関連のセミナーで強調した。「精神科医が1例でもよいから休職した人を社会に戻し、それを示すことが、精神科医への信頼につながる」

 いくら何でも1例では困るのだが、「1例でも」の言葉に尋常ならざる危機感がにじむ。ストレスチェック制度では、産業医だけでなく、精神科医の存在意義も厳しく問われることになるのだ。「1例でも」の危機感を全ての精神科医が共有し、こじらせる医療ではなく、治す医療を実現していただきたい。

 ストレスチェック制度は、まだまだ多くの突っ込み所がある。斜陽な業界にあってリストラの嵐が吹き荒れ、高ストレス者だらけになっている会社では、個々の職場の環境改善など焼け石に水だろう。また「会社が労働基準法を本当に順守すれば、社員のストレスはほとんど解消される」と断じる産業医もいる。

 この制度はうまく行くのか、行かぬのか。世界に類を見ない制度なので、結局は始まってみないと分からない。導入まであと半年。どうなりますやら。

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佐藤光展(さとう・みつのぶ)

読売新聞東京本社医療部記者。群馬県前橋市生まれ。趣味はマラソン(完走メダル集め)とスキューバダイビング(好きなポイントは与那国島の西崎)と城めぐり。免許は1級小型船舶操縦士、潜水士など。神戸新聞社社会部で阪神淡路大震災、神戸連続児童殺傷事件などを取材。2000年に読売新聞東京本社に移り、2003年から医療部。日本外科学会学術集会、日本内視鏡外科学会総会、日本公衆衛生学会総会などの学会や大学などで講演。著書に「精神医療ダークサイド」(講談社現代新書)。分担執筆は『こころの科学増刊 くすりにたよらない精神医学』(日本評論社)、『統合失調症の人が知っておくべきこと』(NPO法人地域精神保健福祉機構・コンボ)など。

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