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心療眼科医・若倉雅登のひとりごと

医療・健康・介護のコラム

白内障手術の進歩、「失明から救う」が「良い見え方」に

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 今日、白内障と診断されて、「大変だ」、「自分の目はもうだめなんだ」と思う方はまずいないでしょう。しかし、古来から「シロソコヒ」と呼ばれて、失明の原因として恐れられた、目の代表的な病気でした。

 歴史をひも解くと、紀元前3~4世紀まで遡る古代インド医学、アーユルヴェーダの「大医典」(人間と歴史社、2005)には瞳孔に見える混濁を銅製の棒または針で穿孔せんこうする治療の記述が出てきます。この方法は日本語で「墜下ついか法」と呼ばれるもので、形を変えながらも世界中に広まってゆきました。

 東大眼科の教授を務め医学史にも詳しい故三島済一氏によれば、墜下法が記載されている中国の医書は、宇多天皇の時代(888~897年)に日本に輸入されたといいます。日本の各流の眼科で試行され、多少の変法を作りながら伝承されてきました。

 1820年にドイツの大学を卒業して3年もたずに来日、鎖国下の日本に5年間滞在したシーボルトは、母国では白内障手術の経験はなかったでしょう。しかし、散瞳薬さんどうやく(瞳を大きくする目薬)を用いて濁った水晶体を取り出す手術を動物でしてみせ、その後ヒトの手術も行ったようです。日本の医師たちはこの墜下法とは違う、はじめてみるその方法には感心はしたものの、古来からの墜下法のほうが結果がよいとの感想を持ったといわれます。

 やがて明治になり西洋医学が本流になると、墜下法はすたれ、白内障摘出手術が主流となります。麻酔や消毒法、手術器械や手技の改善はあったものの、それは戦後まで続いてゆきます。

 私が眼科医になった昭和50年代は、手術用顕微鏡と、冷凍凝固装置の登場により白内障手術が大きな変化を遂げた直後でした。顕微鏡使用でより精緻な手術となり、使用する糸も繊細になりました。冷凍凝固装置で濁った水晶体を一塊として摘出するのは、映像としても美しく、それまでより断然安全性が高まりました。

 しかし、手術によってレンズが除去される代わりに掛けなければならない眼鏡は厚く、大きく見え、片方だけの手術では左右の見え方の大きさが違ってしまいました。

 それでも、当時はかなり視力が悪くなってからの手術でしたので、見えることで人々は喜び、見え方の不満はほとんど出ませんでした。

 昭和から平成にかけて、また大きな展開がありました。眼内レンズの出現と超音波で濁った水晶体を砕く技術が完成したことです。もはや厚い眼鏡は不要となり、安全性もさらに高まり日帰り手術も可能になりました。今では開業医師の中にも白内障の腕自慢が何人も出てきました。

 白内障手術は失明を救う手術から、より良い見え方を得る手術へ転換が図られました。歩行速度が速くなり、睡眠改善、寿命の延長など、よいことずくめの研究結果が次々出ています

 こうして白内障手術の恩恵は、とても多くの方が受けるのですが、まれに落とし穴に落ちることがあります。次回はそういうお話をいたしましょう。

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201505_第4回「読売医療サロン」_若倉

若倉雅登(わかくら まさと)

井上眼科病院(東京・御茶ノ水)名誉院長
1949年東京生まれ。北里大学医学研究科博士課程修了。グラスゴー大学シニア研究員、北里大学助教授、井上眼科病院副院長を経て、2002年から同病院院長。12年4月から現職。日本神経眼科学会理事長、東京大学医学部非常勤講師、北里大学医学部客員教授などを歴任。15年4月にNPO法人「目と心の健康相談室」を立ち上げ副理事長に就任。「医者で苦労する人、しない人 心療眼科医が本音で伝える患者学」、「絶望からはじまる患者力」(以上春秋社)、「心療眼科医が教える その目の不調は脳が原因」(集英社)、医療小説「茅花流しの診療所」、「蓮花谷話譚」(以上青志社)など著書多数。専門は、神経眼科、心療眼科。予約数を制限して1人あたりの診療時間を確保する特別外来を週前半に担当し、週後半は講演・著作活動のほか、NPO法人、患者会などでのボランティア活動に取り組む。

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