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埼玉県の集落、毎年「葬式祭り」

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「病」や「死」分かち合い一体感

伝統のジャランポン祭で盛りあがる秩父市下久那集落の人々(下久那公会堂で)

 「ジャランポン祭」という奇祭が、埼玉県秩父市の下久那しもくな集落に伝わっている。別名、葬式祭り。人身御供ごくう役が棺おけに入り、大騒ぎの葬式を経て運ばれた近くの諏訪神社でよみがえる。人々はどんな思いを託してきたのか。

 3月15日夕。霊峰・武甲山ぶこうざんのとがった稜線りょうせんが夕闇に沈む頃、集落の小さな公会堂は人いきれであふれかえった。79戸から集った老若男女が、死に装束を着て、寸足らずの棺おけに入る今年の人身御供役、深田和稔かずとしさん(40)の“生前葬”をにぎやかす。

 法具のカネ、太鼓、シンバルが同時に鳴った。「ジャランポン」と聞こえなくもない。人の壁をかき分けて大僧正役の川島康助さん(63)が袈裟けさ姿で入場し、「空 悪疫退散居士」と書かれた位牌いはいの前に座った。

 さあ、今宵こよいも皆ではじけられるか――。

 酔ってベロベロになったふりで、大僧正がいいかげんなお経を唱える。厄払いの行事であるジャランポン祭の歴史や健康長寿のありがたさを説くかと思えば、コミカルで大げさな身ぶりをしつつ、「今年の人身御供ね、勝手に棺おけに入っちゃった」「ビールちょうだい」。はたまた、集落の書記や会計を6年務め、会社勤めの傍ら1男1女を育てた“遺徳”をたたえる。

 人身御供も呼応して、水が入った一升瓶をラッパ飲み。ガバッと跳び起き、香典集めに飛びまわる。

 公会堂は笑い声でわきかえる劇的空間と化した。子どもたちも大喜びだ。

 ハチャメチャな葬式を済ませた一同は、棺おけを担ぎ、諏訪神社へ向かった。空気がガラリと変化した。桑の木に結わえた紙の灯籠が、漆黒の闇に浮き立っている。武甲山の輪郭が月明かりで荘厳に光っている。

 神前で神妙になった大僧正が「皆で支えあって生きよう」と呼びかけ、蘇った人身御供は「よい厄落としになりました。微力ながら、皆さんの力になりたいと思います」と腰が折れるほど頭を下げた。大歓声の中で、万歳三唱。キツネにつままれたような、あっという間の2時間が過ぎた。

 三々五々去っていく人に「なぜ、葬式を祭りに?」と尋ねてみた。古老たちがこんなふうに話してくれた。

 ジャランポン祭は、「一度死んだらもう死なない。だから健康長寿」という縁起を担ぐ。40年前まで、下久那集落は、荒川に丸太橋が1本だけ架かる陸の孤島だった。貧しい農家が肩を寄せあい、病や死を背負って生きてきた。娯楽など何もなかった。だからこそ、「病も死も皆で笑い飛ばそう。苦しい時も、皆で楽しくやればしのいでいける」との思いが年一度の祭りに託され、受け継がれた。

 4年前の人身御供役は、「移り住んできた若手が、大先輩たちに顔を覚えてもらう機会。最初は驚いたけれど、皆が役割を果たしたという達成感が絆をつくる。『あの年の人身御供は』とずっと言われるから、手が抜けません」と笑った。

 話を伺いながら、超高齢社会の日本の街を想像した。暮らしこそ様変わりしたが、病や死は変わらない苦しみとして存在する。それらを分かちあい、支えあう祭りを、私たちは手に入れることができるだろうか。

 しんしんと冷える秩父の夜。「また来年、いいジャランポンを」。互いの背中にかけあう皆の声が、闇をぬくもりで包んでいった。(鈴木敦秋)

 ◆ジャランポン祭の由来 江戸中期、村に疫病が流行した時、諏訪神社に人身御供をささげ、「悪疫退散」を祈願したことが始まりとされる。厄払いの行事として定着し、江戸末期までは近くの禅寺で葬式を行い、棺おけを諏訪神社に送っていた。明治時代に廃寺になり、今の形に落ち着いた。

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