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日野原重明の100歳からの人生

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苦難も神様からの恵み…103年間の人生を語る

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 3月24日、東京都府中市の府中の森芸術劇場で多摩連合読売会主催の講演会がありました。そこで私は「心豊かに長生きする秘訣ひけつ教えます」と題して話しました。私の話の前には声楽家でエンターテイナーでもある池田美保さんの楽しいパフォーマンスがありました。

 多摩連合読売会では、昨年10月4日に103歳を迎えた私の誕生日を祝っていないということで、5か月遅れで祝ってもらうことになりました。

 池田美保さんが大きくて豪華なケーキで飾られた壇上に私を招き、私はそのケーキにナイフを入れてから、私の指揮で会場の皆さんと一緒にハッピーバースデーの歌を歌いました。

 

 さて私の講演ですが、103歳までの私の生き方を振り返りながら、どのように人生の難局に対処してきたかについて、用意したスライドを映しながら話しました。

 私は10歳の時に急性腎炎になり、安静と塩分の少ない食事で数か月を過ごしました。母はこの時の私に同情して、アメリカから来日中の宣教師夫人でピアニストのミセス・オックスフォードに、私にピアノを教えてくれるように頼んでくれました。

 その頃、私の家にはオルガンしかなかったので、父が牧師をしていた教会の講堂にあったピアノで練習しました。この時以来、ピアノを弾くのは私の楽しみの一つとなりました。

 もう一つは、京都大学医学部の2年に進級する春休みに、友達と一緒に琵琶湖の近くのスキー場へ行った時のことです。急に高熱が出て胸が苦しくなりました。急いで京都に帰り大学病院で診察を受けたところ、結核性胸膜炎で胸腔に滲出しんしゅつ液がまっているという診断でした。

 病院に入院しても適当な治療法がないという時代でしたから、父が広島女学院の院長をしていたその院長館の2階で母や妹たちの看護を受けながら、約半年間、胸部に湿布をして安静に過ごしました。妹は蓄音機でいろいろな歌曲を聴かせてくれたので、私は白い紙に5本の線を引いて楽譜をつくり、その歌曲を楽譜に書き写したりしました。この時の体験が、後にミュージカルの作曲をするのに生きてきました。

 1年間の自宅療養の後、同級生から1年遅れて京大に復学しました。この病気のために、徴兵検査は丙種となり、召集されることなく1941年に就職した聖路加国際病院で医師として働きつづけることができました。

 終戦後、サンフランシスコ講和条約の締結された1951年から1年間、私はジョージア州アトランタ市にあるエモリー大学に留学しました。アメリカでの経験は、「毎日背が伸びる」と思われるほど実りの多いものでした。

 この後も1970年のよど号ハイジャック事件に遭遇して命の危険を感じたり、20年前のサリン事件では聖路加国際病院で640人もの被害者を受け入れる陣頭指揮をとったりしました。

 103年間の人生にはやはりその長さなりのさまざまな事件があるものです。一昨年には長く連れ添った妻・静子を見送り、昨年は超音波検査で大動脈弁狭窄きょうさく症が発見されました。私の年齢では手術を引き受けてくれる医師もなく、循環器専門医の三男の勧めで移動には車椅子を使っています。

 私たちは自分の人生を「どうせ運命にはあらがうことはできないのだから」と諦めていることが多いのではないでしょうか。そうではありません。動物は走り方を変えることはできません。鳥も飛び方を変えることはできません。しかし、人間は自分の生き方を変えることができるのです。

 その時には苦難だと思ったことでも、後から考えてみるとそれは神様からの恵み、「恩寵おんちょう」として捉えられることも少なくありません。私は何よりもこのメッセージを会場のみなさんにお伝えしたいと思ったのです。

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日野原重明ブログ_顔120_120

日野原重明(ひのはら・しげあき)

誕生日:
1911年10月4日
聖路加国際病院名誉院長
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