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元記者ドクター 心のカルテ

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2つの妄想…パラノイアと統合失調症(下)

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統合失調症の妄想

 統合失調症の妄想は独特であり、他と一線を画す。当連載第1、2回目「『うつ』ではなかった娘の心のうごめき」で紹介した、20歳代の女性の訴えは、統合失調症の妄想と判じてさしつかえないだろう。再掲してみたい。

 高校に進学したころから、周囲に起きていることが「何かやばい」と感ずるようになった。あえて誰にも言わなかった。高校3年時、スポーツ大会に参加し、足をくじいてアキレスけんを切ってしまい、その後2年間通院した。「足を悪くしてから、物事が変になった」と、いぶかしく思うようになった。

 「くるぶしの中が痛い。腱も骨も痛い。肩の中がもげてしまう感じ」と、足首をしきりにさすり、肩に手を当て、しかめた顔を左右に振って首筋を交互に伸ばしつつ、つぶやいた。

 周囲の気配をうかがいながら、声をひそめた。独り言のように続けた。

 「言っていることや、やっていることが、伝わっています。家に盗聴器をしかけられています」、「周りの人に見張られています。近所を自転車で回ったら、何人か発見しました。何者?」、「天井から、パ、パ、パーと物が落ちてきて、家の中に入ってきました。確認実験ですか? それとも研究?」、「私の好きな物があると、もう周りに伝わっていて、同じ物を好きな人が情報を流して、『あいつを殺しちゃえ』って」。

 「不思議な話ですね」と手向けると、肯定も否定もせず、「情報の出し方が、自分で気づけるようにして、誘導されています」、「周りとの関係が、問題。関係性が――」と、自身が直面している状況に困惑するばかりだった。傍証に躍起になる余裕など、あろうはずもなかった。

 

”主体性”意識の破綻 極北をさまよう姿

 「自己」の“首座”に、忽然こつぜんと「やばい」ものが姿を現した。「外から何かが侵入してくる」といった字面のわかりやすさはでは、とらえきれない。迫害される以前に、すでに「やばい」他者が「自己」に食い込み、「自己」そのものが、他者の様相を帯びてしまった。「肩の中が勝手にもげてしまう」と、まるで自分の身体と感じられない。

 プライバシーが、そのまま世界の出来事、関心事になってしまい、誰かが自分を乗っ取り、いつのまにか何かをしている。「誰かが外から自分を操っている」、あるいは、「誰かに操られている」という通り一遍の説明では、的が外れる。

 「自分は主体性をもった自身に他ならない」という「自我意識」そのものが、破綻はたんしてしまった。

 「不気味な体験」は、「自己」のあり方そのものに由来するため、日常から隔絶された特別な「事件」ではなく、「日常茶飯事」だ。あまりに自明で、立証を要しない。誰かに「それは妄想に過ぎない」と否定されても、他者から否定されたこと自体が意味ありげで、反証しえない。憤慨すらしようがない。

 何から何まで不気味で、破綻した「自己」と直結していて、自明なのだ。気づき知った“確信”ではなく、まるで、負わされた“確信”だ。

 「『自己』は『自己』であり、他ではない」という当たり前の意識や、「自分自身を、もう一人の別の次元の自分が認識する」という、通常なら反省の際におのずと立ち現れる認知のあり方が、根底から動転してしまう――。統合失調症を病むという、極北をさまよい生きる姿だ。

 

スタッフ一丸で柔らかく対応

 「迫害されている」と切迫して訴える、30歳代の女性に、「自己」のあり方の根底を揺さぶる危機は、垣間見られなかった。むしろ、自己を主張した。

 入院時、家族と医療機関に不信と憎悪、敵意すら差し向けた。対応を誤れば、妄想をさらに堅固にしてしまうのみならず、「権利侵害」を逆手にとって治療に逐一反発し、現実的にかかわる手がかりを拒まれ、出口の模索に難航しかねなかった。

 パラノイア(持続性妄想性障害)と暫定的に診断し、薬物療法を極力控え、スタッフ一丸で一糸乱れぬ柔らかい対応を試みた。

 当人にとっては、“確信”は事実だ。他者が安易に否定できる筋合いではない。もちろん、肯定もできない。“確信”の内容の是非には立ち入らず、かといって払いのけもせず、つかず離れず耳を傾ける。迫害され窮地に立たされているという危機感に寄り添い、「弱りました」と共にうなだれ悩み、「こちらを、世間を、恐怖に巻き込まないでください。話をうかがうにつけ、困ってしまう――」と、嘆願したりもする。

 一方、世間話を手向け、「今日の病院食はおいしくなかった」、「古着屋で、ぴったりのジーパンを見つけた」と、笑顔で応じてくれたりもし、ここぞとばかりに、スタッフは入れ代わり立ち代わり、身近な話題を膨らませて、日常生活に共に浸る。

 

薬を偏重せず 妄想を抱え現実に根ざす

 統合失調症と異なり、抗精神病薬の効果は限定的だ。さして効果がないにもかかわらず、服薬を説得するがあまり、権利侵害の訴えを招き、元来の攻撃性を目覚めさせてしまっては、スタッフ一同、妄想に取り込まれてこじれるばかりだ。現実生活に根ざした、世間話ができる間柄をみすみす壊しかねない。

 「危機の端緒を察知しようと鋭敏になり、神経が疲弊してしまっています。薬は神経を休ませる効果があります。試してもらい、効果を感じられなければ、やめるのも一法です」と、服薬の利点を説明し、選択の主導権を本人に託した。「少しだったら」と、試みてくれた。

 妄想はそうたやすく退潮しない。当座の安心を抱いてもらいながら、軸足が「妄想世界」から「現実生活」に移っていくのを、こちらもしぶとく待つ。

 妄想は堅固だったが、日常生活に支障をきたすには至っていないと確認し、2か月を経て退院した。

追記

 筆者の私事都合で、1年という節目もあり、今回をもちまして連載を終了させていただきます。24回にわたっておつきあいいただき、深謝申し上げます。

 寂凡(しずなみ)

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