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元記者ドクター 心のカルテ

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「いま、ここ」を軸に~心の健康をまもるために(2)

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 先月に続き、臨床の場で折々に、精神的不調を抱えた方々にお伝えしている、「心の健康をまもる勘所」を紹介申し上げます。

 なにぶん“私家版”であるため、今様の「エビデンス」に裏打ちされているわけではありません。古今の大家の言説や精神科医療の通説を援用しつつ、臨床を通じて紡ぎ直した、あたり前の「心得」に過ぎません。抽象が極まり、説教じみていて、辟易へきえきしてしまいましょう。ご迷惑をおかけしましたら、ご寛恕かんじょ願うばかりです。

 

六条 「いま、ここ」を基準に据える

 

 未来に備えようと躍起になれば、不安に駆られ、過去を顧み過ぎれば、昨非の深みにはまって、後悔に暮れてしまいましょう。

 「他者の基準」にむしばまれた理想像に圧倒され、等身大の「いま」の自身に心もとなさを覚えずにいられず、“一発逆転”を夢想したり、待ち受ける“張り子の虎”にいたずらにおののいたりする。また、理想をかなえられなかったと、過去をあげつらう――。「いま」を見失った先は、自ら放った不安と後悔が錯綜さくそうする、虚構の迷宮でした。

 労をいといながら、理想を一発逆転で成就できると思い込む、稚気に満ちた虚勢や、自ら膨らませていたに過ぎない“張りぼて”に、そうとも知らずにおののいていた滑稽。過ちを悔いたかにみせて、実のところ、今負えるはずの責から目をそらしていた狡猾こうかつに、我に返って気づき、苦笑できたら、しめたものです。

 ありのままの「いま、ここ」こそが、迷宮の出口です。

 「いま、ここ」を実感する手始めに、妻や夫、子、親や兄弟姉妹、そこここの仲間たちに、駆け寄って声をかけ、先手で笑顔を誘ってみてはいかがでしょう。

 

七条 葛藤を率直に認める

 

 葛藤を抱えて、不安や焦燥、怒りや悲しみに暮れてしまうのは、人間の性根しょうねです。感情が生じてしまうのは、致し方がありません。ならば、と、つらい感情を、厄介者よろしくねじ伏せ、排除し、見て見ぬふりをするのをやめて、むしろ寄り添って、慈しんでみました。

 「先方のひとことに、どうも、いらいらしてしまっている」
 「どっちつかずで、不安に駆られる。どうしたものか」
 「理不尽だ。怒りのやり場がない。うちふるえてしまう」

 感情を言葉に託すうちに、「やむをえない。だれだって、この状況には抗いようがない」、「そうだったか、周りに認めてもらいたいだけだった」、「幼い時、一方的に言い含められた、あの不全感、虚無感そのものではないか」と、手前の事情が千々に照らし出されてきました。

 弱みをさらしてみたところ、辛い感情を握り離さずにいた手がおのずと緩み、感情のままにふるまってしまいそうな衝動を、制する余裕がわいてきました。

 辛い感情こそ、満身創痍そういの「等身大の自己」を、自らいたわる手がかりでした。

 

八条 灰色のものは灰色のままに

 

 理想に走るあまり完璧主義に陥ると、他者、自身をも厳しくきたて、「いま、ここ」が不安に満ち満ちで、安心して素でいられる場を見失い、生きた心地がしません。

 白黒に判別しようと、理想にゆがめられた尺度を振りかざせば、「灰色」を“ご都合主義”で振り分けかねません。理想はとどのつまりはひとつの価値であって、旗幟きし鮮明にすればするほど、各々の“ご都合主義”が乱立しましょう。

 柾目まさめばかりが材木ではありません。節も曲がりもある板目を生かしてこそ、材木の用途が広がります。曲がった原木から、柾目にこだわり切り出し続ければ、無駄ばかりです。曲がったものとして見抜いたところに、曲がったなりの持ち味を見いだせます。

 自身も含めて“曲者”ばかりです。曲者を“正直者”に矯め直そうとしたところでせんなく、曲がった見方しかできない自身に気づく労こそ、功を奏しましょう。

 理想もしょせんは“ご都合主義”、曲がっていました。

 

九条 まず行動 意欲は後からついてくる

 

 休み過ぎると、かえって意欲ががれます。ましてや、昼夜が逆転し終日臥床がしょうしていると、おっくうが募ります。

 動きましょう。意欲は後からついてきます。「やる気が出てから、動こう」と待ち続けては、いつになっても意欲は出ません。

 「おっくうだ。後回しにしよう」と、一時しのぎのやすらぎを求めて惰眠をむさぼるのは、人の常です。それはそれで、よしとしましょう。

 転じて、「動きたくても、やる気が出ない」、「うつだ。気力がわかない。動きようがない」と、怠惰の言い訳に精神的不調をほのめかし始めると、事はやっかいです。“健康増進”の世の風潮に後押しされ、気軽にメンタルクリニックを受診したところ、「待ってました」とばかりに、予定調和の茶番劇に巻き込まれかねません。“にわかうつ病”に仕立て上げられ、のっけから、抗うつ薬や抗不安薬、睡眠薬を処方されてしまう悲劇が、後を絶ちません。

 不安、無気力、憂うつを、いたずらに精神科医療に託すのは、もうやめましょう。医療より習慣です。

 じゅうぶん眠り、人と交わって、愚直に生活してみても、まだ、意欲がわきませんか。ひょっとしたら、休み過ぎていませんか。深夜のネットサーフィン、テレビ番組やゲーム、メールへののめりこみ、深酒、過剰な喫煙などは、論外です。

 「動いたって、意欲なんて出るはずない。無駄ですよ」とおっしゃいますか。そう感じてしまうのも無理からぬことでしょう。頭を使い過ぎて、動く前に、もう気疲れしてしまっているのですから。

 試しに、動いてみませんか。意欲や心地よい感情は、後からついてきます。

 

十条 できていることに目を向け 依存を制御

 

 理想に目をくらまされる前に、すでにできていることに目を向け、控えめながらも確たる「自信」を実感しましょう。

 これ見よがしに装い、「自慢」に躍起になったところで、その場限りです。立ち行かなくなったとたん、「こんなはずではなかった」と、責任転嫁に転じてしまいましょう。あるいは、涙ながらに「生きる価値がない」と自己嫌悪してみせて、その実、同情や憐憫れんびんを誘わずにいられなくなりましょう。

 賞賛や非難、憐憫といった、他者が感情任せで発した言動に、振り回されているに過ぎません。

 自慢や責任転嫁、自己嫌悪も、不安におびえた、だれかに頼りたいいっぱいの幼心だったと気づかされます。

 メールから目を離せない、酒や薬、ギャンブルに逃げる、深夜に不安に駆られて救急車を呼ぶ、自傷や自殺を企てる――。いっとき楽になろうと、自身以外の何者かに頼るほど、不安は勢いを増してぶり返します。ますます頼らざるをえず、自身ではどうにもならなくなってしまいます。

 不安や衝動が通り過ぎるのを、ただひたすら「待つ」ことこそ、自律の復権への一歩です。一度「待つ」ことができたら、「ああ今回は、自身の力で不安を乗り越えられた」と、ねぎらいましょう。

 自らを信じて、待つ。練習あるのみです。

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