元記者ドクター 心のカルテ
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精神療法の実際(5)…「命」を巡り 言葉は上滑り
まだ「命」を人質にとられたままだった。命の責を手前に帰されていては、手も足も出ない。無理なものは無理と、率直に伝えて、矛を収めてもらうしかない。
「ああ、たしかに、生きていても、仕方がないと、そうですね――。お話をうかがうほどに、ほとほと、弱りました。ただ――」
詠嘆ばかりで、言葉は上擦り、歯切れが悪い。
「ただ、命を天秤にかけられてしまったら、うろたえるしかなくなってしまうではありませんか」
何を言っても、間に合わない。額、眉間、口角、頬、顎と、顔じゅうの筋肉がおのずと熱を帯びてこわばり、声帯があらん限りの高低の音域を行きつ戻りつし、息をこらえては漏らし嘆じ、声はしわがれた。
唐突に医学知見を援用したり、分かったような言説を繰り出したりと、小賢しい取り繕いは、見透かされるだけだ。一切、周囲に払いやった。ぶざまを曝すままに、徒手空拳で対座し通すと、覚悟した。
ぶざまを曝して 命乞い
「最後の最後、そう、ぎりぎりのところででも、やむをえません、命だけは、どうか守っていただけませんか、いや、守っていただかなくては、困ります。こちらには、ぎりぎりの局面で、あなたの命を守るすべがないのです」
「それでも、あなたは、無防備で、なすすべもなく、途方に暮れてしまっている、あなたを大事とただ思い寄せている者に向かって、『死にますよ』と、おっしゃるのですか。あんまりではありませんか。命を駆け引きにお使いになるなんて、ひきょうだ。手も足も出ない者をおどして、弱い者いじめにも、ほどがありましょう」
「命を守っていただかないと、こちらも何もできなくなって存在価値もなく、あなたを前に、ぼうぜんと肩を落とすしかなく、しかばねです。浮かぶ瀬もありません」
「このままでは、生きた心地がしません。しかばねに、どうか、息吹を、命を、与えてください。あなたにしか、できないのです」
傾聴どころか、とうとう、手前自身の命乞いをする始末だ。ぶざまも極まってしまった。
死なない約束 孤独の闇を破る
命を投げ出すに、すんでのことで踏み留まってもらわなければ、手前に術はない。何度もしぶとく困惑しうろたえ、手前の無能を、吐露し尽くし、知らしめる。命などどうでもいいとうそぶく手合いを前にしたら、妻や夫、親、親友、そして精神科医だろうと、とどのつまりは、無力なのだ。
命を自ら全力で守ってもらうよう、しぶとく唸り続け、いよいよ、である。「約束」を手向け、蠢きにとどめを刺す。
「実際に、手をかけることだけは、どうか、やめてください」
約束は、相手があっての物種。交わした瞬間、孤独の闇に光が差し込む。
「わかりました」
「いま、ここ」に刻々とゆらめく「われとなんじ」の対話が、はかなくも脈動し始め、「われとなんじ」の関係が未来にも開かれ続く「約束」に結実した。
「約束」は、「なんじの行いは、畢竟、われに手のなし」という、手前の無力宣言であるとともに、「わが行いは、あるじたるわれの所領で、なんじに帰すべからず」という、先方の決意表明でもある。のみならず、相まみえることができない折にも、「約束」に思いを致せば、なんじの姿が虚空に幽舞し、孤独の闇に薄明かりが灯る。破闇の光だ。
(次回に続く)
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