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ケアノート

医療・健康・介護のコラム

[加茂さくらさん]母子2人 幸福な時間

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「長く元気に」支えた日々

 

「母の好物のトロのヅケやかまなくていいコーンスープをよく作りました。少しでも食が進むようにと懸命でした」(兵庫県尼崎市で)=守屋由子撮影

 女優の加茂さくらさん(77)は、母・大谷風子ふうこさん(2007年、93歳で死去)が亡くなるまでの10年余り、実家のある兵庫県尼崎市に住まいを移し、介護をしながら母子2人で暮らしました。「体調の変化に気の抜けない日々でしたが、一番好きな人に寄り添えた、幸せな時間でした」と振り返ります。

 母との同居は1996年からです。きっかけは、母が大腸がんを患ったことでした。

 母は実家で、妹(宝塚歌劇団出身でプロボウラーの大谷茂子さん)と暮らしていましたが、がんになった当初、人工肛門をつけることをためらいました。私は「お母さんは器用だから、処置は自分でできるわよ」と説得して手術を受けさせ、「もし処置できなくなったら、私が完璧に面倒を見るから大丈夫」と約束しました。

 私は宝塚歌劇団を退団後、ずっと東京で一人暮らし。60歳に近づき、隠居してもいい年齢になりました。「今なら母と生活を楽しめるし、今後、介護が必要になった時も対処できる」と、実家に戻ることを決断しました。

一緒に喫茶店

 

 96年、舞台の千秋楽を終えた足で尼崎市に戻った。実家から徒歩5分のところにマンションを借り、母子で新しい生活を始めた。

 私の役目は、母に長く元気に過ごしてもらうこと。それには何かすることがあった方がいいと思い、妹がスナックを営む実家の一角で昼間、母と喫茶店を始めました。

 2人でカウンターに立ち、コーヒーをいれました。母は元々宝塚歌劇の大ファン。私が宝塚音楽学校に入ったのも母の勧めでしたから、店に来てくださったファンの方と楽しそうに話していました。

 休日には、近くに住む妹や弟夫婦らと、散歩がてらランチに出かけました。母は手芸などの手仕事も得意で、色々なものを作っていました。

妹らも協力

 

 2001年、風子さんに大腸がんが再発、切除手術を受けた。退院後は次第に食が細り、生活に介助が必要な場面が増えていった。

 全面バリアフリーの部屋に引っ越しました。要介護認定は前から受けており、知人から訪問介護の利用を勧められました。でも、母は自己主張するタイプではなく、ヘルパーさんに気を使ってしまう懸念もあり、介護保険はベッドなどを借りた時以外は利用しませんでした。食事作りなど、日常の世話は私がしました。

 母に申し訳なかったと思うことがあります。入浴には介助が必要なのですが、腕の力が弱い私を気遣い、「お風呂はシャワーだけでいい」と言いました。本当は熱いお湯につかるのが好きだったのに。

 その後は、かつて宣言した通り、人工肛門の採便用の袋を交換。接着部の皮膚が荒れると、袋が付きづらくなるので、軟こうやパウダーをまめにつけるなど、肌のケアには気を使いました。

 仕事で家を留守にする時は、妹や弟夫婦に協力をしてもらいました。その際、いつ起きて、何時に朝食を食べて、タクシーを呼んで病院に行って――と、スケジュールを分刻みで書き出したメモを渡しました。メモ作りは私が多忙な時に使う方法で、書かれた通りに動くと、早いし楽です。

 妹らは母の体をもむなど、癒やしも与えてくれました。母の世話を一人で抱えなくても済むのがありがたかった。

 母の意識はしっかりしていました。NHK大阪放送局制作の朝の連続テレビ小説「わかば」(04~05年)に出演した際には、せりふを覚える時に相手役になってもらいました。せりふが思い出せないでいると、「流れを考えたら、出てくるでしょ」と諭されるほどでした。

感謝の言葉

 

 06年、散歩中に風子さんが突然「歩けない」と訴えた。近くの駐車場の係員にいすを借りて座らせ、タクシーで帰宅。その後、外出には車いすが必要になった。

 90歳を超えると、何が起こるか分からない。それを実感して焦りました。特に母は不調を訴えないたち。寝息に聞き耳を立てるように、見守っていました。

 半年後、心臓の鼓動が弱まり、往診に来られた医師から「明日、入院しましょう」と言われた翌朝、母がトイレでうずくまって部屋に戻れなくなりました。救急車で病院に運ばれて入院。その2週間後、私が東京でのコンサートから戻るのを待ってくれたように息を引き取りました。

 母は私のために頑張ってくれていたんだと思いました。最後の入院中に「ありがとう」と言ってくれたこと、知人から「お母さんはあなたと一緒に暮らしたから、長生きできたのでは」と言ってもらえたことが救いになりました。

 昨年行われた宝塚歌劇100周年のイベントでは、母の手作りの衣装で舞台に上がり、母への思いも一区切りついた気がします。だからか、最近、自分の死に方をよく考えます。バリアフリーの自宅で、一人で最期まで過ごせたらいい。お世話になった人に、母のように感謝の言葉を言えたらいいな、と思っています。(聞き手・中舘聡子)

 

 かも・さくら 1937年生まれ。54年に宝塚音楽学校に入学。翌年入団した宝塚歌劇団では、数多くの舞台でヒロインを演じ、美しい歌声で脚光を浴びた。71年の退団後は、映画、テレビ、舞台などで活躍。「3時のあなた」の司会なども務めた。2014年には、蜷川幸雄さん演出の舞台「皆既食―Total Eclipse―」に出演した。

 

 ◎取材を終えて 風子さんが付けたラインストーンが光るスリッパを用意して迎えてくれた加茂さんは、「母の健康維持を兼ねて作ってもらったものが多くて、捨てられないの」と笑った。「実は、母の老後は一緒に暮らすと、若い頃から決めていた」と話してくれた加茂さん。濃密な母娘関係は「一卵性母娘」とも呼ばれるが、依存し合うのではなく、互いに思いやる心を持っていたからこそ、豊かに暮らせたのだろうと思った。

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