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元記者ドクター 心のカルテ

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「理想像」の重圧~心の健康をまもるために(1)

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 大みそかの喧騒けんそうと静寂に浸り、この一年を、ともすれば半生を、悲喜こもごも顧みていた最中、いや応もなく年が改まりました。いっせいに祝詞が交い、つられて挨拶に応じるうちに、たゆたい思いせていた昔日から、「いま、ここ」に連れ戻され、勢い余って、行く先の抱負を巡らせるに至りました。

 過去を顧み、未来に備えるにしても、行き過ぎれば、後悔にくれ、不安に駆られてしまいましょう。

 昨年11月から「精神療法の実際」を連載していますが、年頭ですので、次回に先送りさせていただき、今回は趣向を変えてみたく存じます。

 臨床の場で折々に、精神的不調を抱えた方々にお伝えしてきた「心の健康をまもる勘所」を、十か条にしたため、年頭の辞に代えて、今月と来月に1回ずつ、計2回にわたって紹介申し上げます。

 私家版であるうえに目新しさに欠け、恐縮至極ですが、後悔と不安の渦に足元をすくわれそうな折、「いま」に踏みとどまり、平静を取り戻す糸口をお示しできればと、そんな願いを込めました。

 

一条 眠る

 

 心身が疲れたら、あるいは、一日を終える頃合いに“物足りなさ”や空虚感に襲われたら、眠ってしまいましょう。何かを期待して、テレビやインターネット、ゲーム、深酒や深夜の電話などで、“もうひとあがき”をしようものなら、逆効果です。

 余力があれば、起きる時間を決めるといいでしょう。寝る時間よりも、起きる時間を一定にした方が、結果として、生活リズムを保てるものです。昼夜逆転は、精神の不調にこたえます。

 睡眠不足や生活リズムの乱れを放置したまま、疲労回復や意欲向上をどれだけもくろんでも、焼け石に水です。起きる時間を決めて、眠るに限ります。

 

二条 孤立を避ける

 

 厭世えんせいが募り、他者との交流が疎ましい時もありましょうが、孤立だけは避けましょう。

 生活リズムが崩れ、孤独に陥ると、気づかぬうちに、そして確実に、憂うつ、意欲減退、不安を招きます。自身の価値を見失い、最悪の場合、死んでしまいたい欲動に駆られます。

 人とつながりましょう。気の利いた会話はいりません。ただ、一緒にいるだけで十分です。

 「自分語り」に興じ過ぎても、孤立へと転げ落ちかねません。「私は」、「私が」と独白を重ねそうになったら、「あなた」とひとこと呼びかけて、対話の間に身をゆだねてみませんか。

 孤立している人を見かけたら、声をかけてあげて下さい。

 逆に、人間関係を分断し、他者を孤立させるよこしまな行為こそ、俗に言ういじめにほかなりません。

 

三条 「等身大の自身」を受け入れる

 

 「このままでいいのだろうか」、「こんなはずではないのだが」と、ため息を漏らすこともたびたびでしょう。理想を高々と掲げ続けて、自信喪失にくれてしまいます。一転、首尾よく結果をはじき出し、賛辞を浴びたとたん、「してやったり」、「我ここにあり」と、誇らしげに周囲を見渡したくなったりもします。

 いずれも、うつろいやすい「他者の基準」に翻弄された姿です。

 偏差値教育、業績至上主義、過当競争と、他者の“しゃくし定規”をあてがわれることに、慣れきってしまいました。ひょっとすると、幼いころから被り続けた親の期待やしつけで、いまだにがんじがらめになっているのかもしれません。

 いつのまにか“刷り込まれた”理想像を希求し、かつて親や教師、上司たちが言い含めてきたように、自らも「等身大の自身」を、取るに足らぬと見下してしまう。また、他者を一瞥いちべつし、自身と優劣を判ずることに明け暮れ、自信と自慢を混同してしまう――。不全感にくすぶってしまうのも無理ありません。

 「他者の基準」にむしばまれた理想像を、本来の自身であるかのように錯覚して、苦悩にあえいでいませんか。「等身大の自身」こそ、本来の姿です。

 結果の高の評価は他者に任せるにしても、結果を生むまでの道すがら、時に逡巡しゅんじゅんし、創意工夫した自己の営みこそは、「やれるだけはやった」と、評価の首座を他者から取り戻しましょう。

 満身創痍そういの「等身大の自身」を、無条件に受け入れ慈しみ、たとえささいに思えたとしても、既にできていることを列挙し、自己評価して積み重ねる習慣こそ、自信を涵養かんようします。

 

四条 自己を見つめ過ぎない 自分を大切にし過ぎない

 

 「何に打ち込んだらいいのかわからない」、「自分は何者か」とゆらめき、“自分探し”に明け暮れたところ、年来、くすぶり続けてしまいました。「生きる目的とは何か」と懊悩おうのうしても、しょせんは、答えのない問いでした。「問い方」を間違ってしまった、とも言えましょう。青年期に一度は踏むてつです。

 「目的」や「意味」は、人為的に意図して与えられるものです。もし、人間の生き方に「目的」や「意味」があるとしたら、人間に「目的」や「意味」を与えることのできる、超越した「何者か」が存在しなければならなくなります。宗教や占い、物語の領域です。

 「論理」や「因果関係」は、前提条件や定義を与えられ、あらかじめ限定された領域でのみ成り立ちます。前提条件や定義にまで論理を適用しようとすれば、自己撞着どうちゃくに突き当たります。突き当たった先で論理は崩れ、「価値観」があるばかりです。価値は百花繚乱りょうらん、人それぞれで、論理は無用です。

 自らの責任で、ひとつの「価値」を信じて選び取り、没頭したところに、「さあ、これでよし」という、その人ならではの絶対性が帯びてこようというものでしょう。前提もなく、のっけから絶対的価値を論理で正当化しようものなら、全体主義的な信仰に直入してしまいます。

 先哲たちの幾世紀にわたる煩悶はんもんをなぞるにつけ、「生きる意味」は、人それぞれが価値を選び取ることで自らに与えるのであって、全人類に初めから包含されているわけではないのだと、つくづく知らされます。

 もっとも、感情は、そんな論理においそれとはなびきません。“闇の底”で悲泣するばかりに陥った時、もっともらしい言説など受けとめられようはずもなく、いよいよ「絶対の物語」に救いを求めずにいられなくなりましょう。世界保健機関が健康の定義に新たに加えるべく提案したまま、保留状態となっている「霊性」が、個々の場面で復権する、とも言えるでしょう。

 また、昨今、健康増進のかけ声に駆られて、健康になること自体が目的となってはいないでしょうか。自身の心身を過剰に気遣い、結果として、微妙な不調をことさらにあげつらい、また、自然の摂理である老化を忌み嫌い、情報に踊らされて混乱し、不安を招きかねません。

 心身は働かせてこそ、です。健康志向に行き詰まったら、「問い方」を変えて、健康に“生活する”には、と思い巡らせてみてはいかがでしょう。きっと、「当たり前」に行き着きます。

 

五条 愚直に日常生活を送る

 

 「生きる意味」に答えを出そうと悩み、自身を託すに足る道を希求したところで、理想像ばかりが膨れ上がり、ますます等身大の自身が陳腐に映り、「生きる意欲」を失ってしまうのがおちでしょう。「生きる意味」を探求した結果、「生きる意欲」を失ってしまったら、本末転倒です。

 現実の等身大の自身こそ、困った時に立ち返る“原点”です。心強い“味方”です。

 「世の中は食うて稼いで寝て起きて さてそのあとは死ぬるばかりぞ」

 一休語録になぞらえば、愚直に生活してこそ、です。次のように換言できるでしょうか。

 寝て起きて、食べ排泄はいせつして、入浴し、人とつながり、働き、遊ぶ、あとは「おまけ」で、“自己実現”。

 自己実現ですら、人とつながり、互いにかけがえのない役割を演じ合う中で、いつのまにか立ち現れるものでしょう。のっけから、探して得るような代物ではありません。

 付加価値という「おまけ」に、目がくらみやすい浮世です。

つづく

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