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ケアノート

医療・健康・介護のコラム

[春山哲朗さん]車椅子の父 自然の姿

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最後の言葉は「サンキュー」

 

「人工呼吸器をつけないという父の意思にはそいたいが、そうすれば父は世を去ってしまう、とさんざん葛藤しました」(大阪府箕面市で)=伊藤広路撮影

 介護機器開発販売会社、ハンディネットワークインターナショナル社長の春山哲朗さん(29)は今年2月、同社創業者で、難病の進行性筋ジストロフィーと闘った父、満さん(享年60)を亡くしました。「父から最後にかけてもらった感謝の言葉が忘れられない」と打ち明けます。

介護は母の役割

 

 私が物心ついた頃、父はすでに首から下がほぼ動かない状態でした。周囲からはよく「大変やねえ」と声をかけられましたが、私にとって、車椅子に座っている父の姿は当たり前で、闘病しているという意識はなかったんです。

 両親には「子どもに介護をさせない」という方針があり、父の介護はもっぱら母の役割でした。トイレから食事、入浴の世話まで、今となっては「母は実によくやっていたなあ」と思います。

 満さんは24歳で発症。次第に全身の筋力が低下し、自力では立ち上がれなくなった。「介護を必要とする人にも、介護する家族にも役に立つ商品を」と、満さんは会社を設立。商品や釣り銭の取り口を上に設けた「バリアフリー自販機」など、独創的な製品を考案した。「車椅子社長」と呼ばれ、2003年には米ビジネスウィーク誌で「アジアの星25人」にも選ばれた。

 体の自由がきかないとはいえ、父は精力的に仕事をしていました。日が昇る前に家を出て、帰宅は深夜になることも。講演などで自宅の大阪を離れる機会もしばしばあり、年3回の家族旅行以外は、父がしっかり休むことはほとんどなかったですね。

 中学生の頃、そんな父に強く反発しました。父が新聞やテレビなどに登場するようになって、「春山さんの息子」と呼ばれたり、学校で話題に上ったりして、それが嫌でした。この状況から逃げ出したい思いもあり、高校を卒業すると、英語でビジネスを学ぶため米国に留学しました。

父の理念を理解

 

 ホテル業界に興味があった哲朗さんは、ホテルビジネスについてラスベガスの大学で学んだ。現地のホテルに併設されたカジノは、老人ホームとの間で送迎バスが往復しており、車椅子の高齢者が介護者とともに、楽しそうにギャンブルに興じていた。

 彼らの笑顔を見たとたん、父の顔が浮かびました。とかく暗い印象のある日本の介護や医療を、明るい形に変革したいという父の理念が、すんなり理解できたんです。すぐに父に電話をし、「仕事を手伝わせてほしい」と頼み込みました。

「社長の部下」として満さん(右)を支えた哲朗さん(2010年撮影)

 大学を中退して帰国し、父の会社に入社。父と息子から、社長と部下の関係に変わりました。他の社員と交代で、社長の車椅子を押すのが「業務」になりました。

 分刻みのスケジュールのうえ、思うように自分で動けないいらだちもあったのでしょう。空港などで「早う車椅子を押して走れ」と父にどなられるのもしょっちゅう。いかに社長に気分良く仕事をしてもらうかに注力しました。

 食事を一口ずつ、スプーンで食べさせるのも私の役割です。一日の仕事を終えてホテルに戻ると、ストローでビールを飲むのが、父の何よりの楽しみでした。

 自宅でも、母が体調を崩した時などに父の面倒を見ました。苦労したのは入浴の世話。湯船につからせる時など、少しでもミスをしたら命に関わるので、神経が疲れました。

難病でも天寿全う

 

 満さんは12年頃から食欲が落ち、やせて体力も低下していった。医者嫌いだった満さんだが、この頃から月2回、ホームドクターの訪問診療を受けるようになった。自宅で仕事をすることも増えていった。

 父が倒れたのは今年2月21日。会社にいた私に母から電話があり、父の呼吸が低下し、意識がもうろうとしていると知らされました。救急車で病院に運びました。

 翌日、応急処置もあって意識が回復した父は、私や母に「肩と腰をもんでくれ」と指示しました。そうしていると、小さな声で「サンキュー」と言ったのです。それが父の最後の言葉になりました。

 その夜、父は再び呼吸困難に陥りました。父はかねて「何があっても人工呼吸器はつけるな」と言っており、その意思を尊重することにしました。最期は自宅で迎えさせようと、翌朝に連れ帰りました。

 その日の昼、父は亡くなりました。「息を引き取る」という言葉通りの、安らかな最期でした。還暦を迎えてちょうど10日後。60歳というと世の中では早世でしょうが、難病の父には満足のいくこと。天寿を全うしたと思います。

 「くしたものを数えるな」という父の信念を受け継ぎ、会社経営にあたっています。「ないものねだりせず、今あるものを精いっぱい磨け」という意味の言葉です。

 父の死で失ったものは大きいですが、「くよくよせず、残された社員と最大限の努力をしよう」と、思いを新たにしています。それが父への何よりの供養になるでしょうから。(聞き手・田中左千夫)

 

 はるやま・てつろう 1985年、大阪府生まれ。高校卒業後、ハワイの大学へ留学。その後、ネバダ州の大学に編入。2007年に帰国し、ハンディネットワークインターナショナルに入社。14年3月、満さんの後を継ぎ、同社社長に就任。満さんとの共著に「脳から血~でるほど考えろ!!」(週刊住宅新聞社)など。

 

 ◎取材を終えて 満さんは2011年4月から最期を迎えるまで、大阪・毎日放送のラジオにレギュラー出演していた。先が長くないことを悟り、若い世代に「生き抜く力」を伝えたい、という思いがあったのだという。番組は今年4月、哲朗さんへと引き継がれた。「父は力の限り生き抜いた」と言い切る哲朗さん。車椅子越しに満さんの背中を見て育ち、会社のみならず、父の生き様をも引き継ごうという覚悟が感じられた。

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