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日野原重明の100歳からの人生

介護・シニア

健康に特別恵まれたわけではない

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 私は来る10月4日に満103歳という長寿を迎えます。「日野原さんは特別で、先天的に健康に恵まれているので超高齢でも活発な活動をしているのだ」と考えている方がたくさんいると思います。しかし、私のからだの内面を暴露すると、きっと皆様も驚かれるでしょう。

大学時代、胸膜炎に

 私は22歳の時、京都大学医学部の1学年を終えた春休みに、友人に誘われて、夜間の船に乗って琵琶湖の北にある北牧野スキー場に行きました。早朝、船が琵琶湖の北岸に着いた頃、体がなんとなくだるく寒気がして、スキー場に着くとさらに体がかたかた震えるので、体温計を借りて測ったところ、39度の高熱がありました。すぐ大津に引き返し、京大生のための健康相談所で診察を受けました。

 胸部X線撮影では右の胸郭に滲出液しんしゅつえきがいっぱいたまっていて、心臓が右方に押されていることが分かりました。診察した医師は、これは結核性の胸膜炎だが、結核の治療薬はないので、自宅で静養するしか仕方がないと言うのです。

 その時、私の父は広島のミッション・スクールの院長館に住んでいました。院長館は敷地も広く、テニスコートもある二階建ての洋館でした。私は二階の一部屋を病室とし、ベッドを置いて絶対安静をとりました。母がつきっきりで私を看護し、4時間おきに温湿布をしてくれました。母の友人の開業医が毎日往診し、胸腔穿刺きょうくうせんしで1リットルもの液をとってくれました。熱は38度台が続き、食欲は全くなく、消耗しきっての療養でした。

後遺症に苦しみながら

 8月頃になり、やっと熱が下がり、私は時々ベッドから離れ庭を見たりできるようになりました。3月には2学年の学期末試験があるので、友人のノートを借りて読み、試験を受けようとしていました。しかし両親は、体力がない体でそんなことをすると病気が悪化すると言って絶対反対でした。後遺症で左胸の高度の胸膜癒着と気管支拡張症があり、肺活量は2200ccにも低下していたのです。

 私は4月には復学して、2学年の講義を聴きました。座って受講すると強い胸痛がするので、階段教室の一番上で体を横たえなくてはならないほどでした。後遺症は、その後、長期にわたり続きました。

 私が設立した「新老人の会」は現在47の支部をもっているので、毎年1回は各部会を訪問してフォーラムを行っています。また、私はいろいろな医学会から講演を依頼されることも少なくありません。多くの方は私がいかにも健康だと思っていますが、実際は胸膜炎の後遺症で気管支拡張を持ち、たんが多く出ます。

大動脈弁狭窄症も見つかったが

 さらに驚くことがありました。3か月前、私が名誉院長をしている聖路加国際病院の新しいコンピューター断層撮影(CT)で検査を受けたところ、大動脈弁狭窄きょうさく症があり、弁が普通の3分の1しか開かないことが分かりました。私は100歳を超えているので、心臓手術は危険と判断され、今は車椅子の生活を余儀なくしています。

 それでも、車椅子を使えば、飛行機や新幹線でどこへでも行けます。空港や駅から自動車に乗り移り、会場に行き、1時間の講演を行っても少しも疲れません。それゆえ私は健康に見えますが、体内をのぞくと、胸膜炎の後遺症があり、大動脈弁狭窄症があります。いろいろな欠陥を持ちながら、幅広い活動をし、まもなく103歳の誕生日を迎えます。

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日野原重明ブログ_顔120_120

日野原重明(ひのはら・しげあき)

誕生日:
1911年10月4日
聖路加国際病院名誉院長
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