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RUN

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(下)走ることで手に入れたまったく別の人生

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「走る」ことによって体力がつき、趣味も広がっていく

 ――体重83.2キロ、身長170センチ、体脂肪率26.2、ウエスト100.5センチ。(中略)総合所見には、痛風は要治療継続、血清脂肪は要治療、管理。――

 これは走り始めるまでの著者、江上剛の健康診断の結果である。さすがに元銀行マン。ネガティブな数字ではあるが、克明に自分の健康状態を把握している。数字からも成人病の予備軍であることがわかるが、これらの疾患に加えてイボ()がひどく、初マラソンのつくばマラソン後に切除手術を受けるが、「よくこのケツでフルマラソンを走ったね」と医者から妙な感心をされ、「破裂するところだったよ」と脅かされる。さらには肥満による睡眠時無呼吸症も患っている。

 ところが、走り始めてから約3か月で体重を74キロまで落とす。「体重73.2キロ、身長169.9センチ、体脂肪率17.8、ウエスト88センチ」。これは走り始めてから約1年後の診断結果である。ウエストはなんと13センチ近くも縮めている。

 もちろん健康は数字だけで測れるモノではない。だがこの変化は、江上に計り知れない健康と長寿、それに強い精神力を与えたことだろう。

 ところで正直言って、ボクはこれまでホノルルマラソンや東京マラソンに興味がなかった。なんとなくお祭り的なムードがイヤで、しかも抽選でしか走れない東京マラソンには、どこかしら小さな嫌悪感さえあった。だが江上にとって、2度目のマラソン出場が東京マラソンで、その印象を読んでいたら一度走ってみたくなった。

 ――10キロ関門で28分57秒。増上寺と東京タワーが並んで見える。いい景色だ。第一京浜、田町駅前に来る。ここは、私が大阪から転勤して来て初めて東京で働いた町だ。(中略)田町、大手町、築地と自分が勤務してきた街を走って来たと思うと、なんだかジンと来て、涙が出そうになった。東京マラソンというのは、東京で過ごした青春を確認しながら走るマラソンなんだな。(中略)東京マラソンは、私が東京に来てからの暮らしを全て思い出させてくれた。東京という大都市を走ることは、まるで人生の走馬灯を見るようなものだ。(中略)実際に自分の足で、都市を走っていると、それまで大都会の砂漠と言っていた、よそよそしく、冷たく、白々とした、非人間的な都市が、驚くほど、温かみと人間味にあふれ、親しみやすく、愛すべき存在であることを実感する。――

 常日頃感じていることだが、走っていると、風景が日常とは違って見える。移動の速さの問題なのか、それとも心拍数が上がって、脳内になんらかのホルモンが分泌されるせいなのか分からないが、感受性が敏感になることは確かである。

 経営破綻に(ひん)した銀行の長という立場から、世間からも非難の目を向けられ、成人病に悩み、50歳を過ぎてからの己の人生に憐憫(れんびん)の情を抱いていた著者だからこそ、自分の半生を振り返る東京マラソンに、特別の思いを持って挑む。

 ――2010年は銀行の問題など多くの(つら)いことがあった。社外役員だったAさんを自殺で失い、つい先ごろは同じ社外役員だったM先生まで病死された。私は、ちゃんと走ってますよ、と天国の二人に話かけた。――


元銀行マンとしてのマラソン景気対策

この季節、ネムノキの花が涼しげに風に揺れる。走っているとそんな小さな花の存在に気付く

 江上はマラソン出場のたびに着実にタイムを縮め、やがては初マラソンを走る知り合いの編集者のために、ホノルルマラソンで伴走まで務めるようになる。その際の江上の印象も、銀行マンたる思いが際立つ。

 ――それにしても応援する人も入れると、いったい何人の日本人が来たのだろうか。ざっと2万人として、彼らの旅費だけで30万円、滞在中に落とすお金が10万円とすると計40万円、これだけで80億円だ。他の国の参加者も合わせて、ホノルルマラソンだけで百億円の経済効果があるだろう。――

 これはすごいことだ。さらにマラソン経済への考察が続く。

 ――2010年のランニングウエアの市場規模は、前年比18.2%も伸び、約128億円と見込まれるという。火付け役となった東京マラソンが始まる前、2006年には約59億円というから倍以上の伸びだ。(中略)こうした状況に、スポーツ用品メーカーばかりではなく、靴下メーカー、下着メーカー、そして各地方自治体まで、なんとかランナーの気をひこうと必死だ。(中略)日本がダメなのは、内需が一向に刺激されないからだ。デフレが長く続くのも、決してお金がないからではなく、金を出して買いたいものがないからだ。――

 ……と説き、具体的に次のように訴えかける。

 ――ウエアや靴のメーカーは、コストの安い海外で作って、日本で売る。日本には、それを安く、ではなく、ちゃんとメーカーに利益のある価格で買う消費者がいる。彼らは他の物では満足しない。ワコールのウエア、ミズノのシューズが欲しいのだ。すると日本の中でシューズを売る人、ウエアを売る人の雇用が生まれる。それは、そこでとどまらないで拡大して行く。――

 昔から長く走っている人の話には、それなりに説得力がある。頂点を目指してきた人々の話も深く納得する。だが、50歳を過ぎて走り始め、それまでは対極の人生を歩んで来た人の話は意外性がある。

 「走る」ことによって、新たな視点と考察が生まれる。

 この本を読んだ後、多くの政治家も走ればいいのに、と強く思った。そしたら我が国はもっといい国になるはずだ。

 (敬称略)

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