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ケアノート

医療・健康・介護のコラム

[平川克美さん]初めて父と向き合った 長く疎遠だった関係回復

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「父と暮らした1年半で、世代間のバトンタッチができた気がした。個人にとっては『死』は終わりだが、人類という大きな単位でみればバトンを渡してつなげていくもの。そう思うと、死が怖くなくなりました」(東京都内で)=高橋はるか撮影

 IT企業「リナックスカフェ」社長で作家の平川克美さん(64)は、一人暮らしの父●夫(なみお)さん(2011年、86歳で死去)を介護するために実家に戻り、1年半にわたって世話をしました。(●はサンズイに美=読みは、なみ)

 それまで父とは会話らしい会話がなかったといい、「介護生活を通じて、初めて父と向き合うことができた」と振り返ります。

実家に「単身赴任」

 

 父は東京都大田区で町工場を経営し、町内会長も長年務めていました。一方の僕は、大学卒業後、友人らと起業し、1990年代の終わりからは、ずっとIT関連の会社の経営に携わっています。

 子どもの頃、父と一緒に銭湯に行った思い出はありますが、親子らしい会話を交わしたのはその頃まで。父親は遠い存在で、思春期以降、父の内面に興味を持つこともなく、ここまで来ました。

 2009年秋、母久子さんが玄関先で転倒して大腿だいたい骨を骨折、入院。さらに末期の子宮けいがんが見つかり、その年の暮れに亡くなった。

 一人暮らしになった父は、当時85歳。僕は週に2、3回、大田区にある実家を訪ねて様子を見ていました。

 翌年2月のある朝、出勤前に実家に寄ると、台所のガス台の上にプラスチックの溶けた塊が散乱していました。どうやら流しの洗いおけを間違えて火にかけたようでした。「これ以上、父を一人にしておけない」と思いました。

 都内の自宅に妻と娘を残し、僕が実家に「単身赴任」することにしました。当時の父は要介護認定で要支援2と、決して重くはなかったので、僕の仕事は朝晩の食事作りと洗濯ぐらいでした。昼食はヘルパーさんが作りに来てくれました。それまで料理はほとんどしたことがなかったのですが、やり始めると意外に楽しく、甘党の父のためにジャムがけヨーグルトなどのデザートも用意していました。

 3月、●夫さんが風邪をこじらせ、救急車で病院の集中治療室に運び込まれた。一時は意識を失い、自分で呼吸ができない状況に陥った。

「せん妄」状態に

 

 父は意識のない状態から劇的に回復しましたが、その後すぐ「せん妄」状態になりました。幻覚が見えたり、時間の感覚が前後したり、意識が混濁して訳の分からないことを言ったりするのです。やがてせん妄は収まりましたが、今度はほとんど言葉を発しなくなり、すっかり年老いた姿になってしまいました。

 僕のおい、父にとっては孫の結婚式に出席するため、1泊だけの外泊許可をもらって、1か月ぶりに帰宅した晩のこと。何かあれば枕元のベルを鳴らすように父に言い、僕は2階で寝ていました。

 夜中に一度呼ばれ、トイレの介助をしましたが、2度目に呼ばれた時は眠り込んでしまって気づかず、物音に気づいて階下に下りた時には、父が床に腹ばいになり、小便の海を泳いでいました。自分で何とかしようとしてベッドから転落してしまったのです。

 5月下旬に父が退院し、朝晩に食事の支度と洗濯、昼は会社という生活に戻りましたが、この頃には父の要介護度は高くなっていました。夕食後に父を風呂に入れると、「風呂はいいなあ」と喜びました。僕は社長業のほかに著述業もしており、夜は原稿を書く傍ら、3時間ごとのトイレに付き添いました。

 「リナックスカフェ」の経営は、設立以来、大変な状況が続いていました。会社経営と介護は、僕にとってはどちらも重要。ただ、緊急性が高いのは介護の方でした。会社経営はやり直すこともできますが、父の介護は待ったなしですから。

 基本的には午後6時頃に会社を出るようにしていましたが、それでも週2、3回は残業しました。幸い、父には近所に助けてくれる人がたくさんいたので、僕が遅くなる日は近所の人やヘルパーさんに晩飯を作ってもらい、食べさせてもらいました。一人で全てをすることはできない。いかにいろんな人が出入りするネットワークを作れるかが、仕事と介護の両立のカギとなるのではないでしょうか。

 翌11年1月下旬、●夫さんが誤嚥ごえん性の肺炎を起こし、再び入院する。これが最後の入院となった。

最後に大切な時間

 

 体調は一進一退のまま、6月2日に危篤状態に。急いで病院に向かいましたが、間に合いませんでした。「苦しむことはなかった」という医師の説明が救いでした。

 介護はきついです。正面から向き合う覚悟を決め、そこに積極的な意味を見いださなければ、やり遂げられないのではないでしょうか。僕の場合、長年疎遠にしていた父との関係を何とかしたいという思いもあったのです。

 父の最後の入院中に、東日本大震災がありました。翌日病院に行き、「揺れたね」「昨日は道路が混んでなかなか家に帰れなかった」などと父に話していると、黙っていた父がふと「俺は戦争に行ったから」と言うのです。初めて聞く話でした。父は震災に匹敵する惨事を若い時に経験していたのです。

 僕は本当に父のことを何も知らなかった。介護を通じて、これまで取れていなかった父と子のコミュニケーションを、最後の最後に取ることができた。大切な時間でした。(聞き手・森谷直子)

 

 ひらかわ・かつみ 1950年、東京都生まれ。早稲田大理工学部卒業後、小学校時代からの友人で思想家の内田たつるさんらと翻訳会社を設立。2001年、ネットビジネス支援などを行う「リナックスカフェ」を設立。11年から立教大ビジネスデザイン研究科特任教授。著書「俺に似たひと」「『消費』をやめる」など。

 

 ◎取材を終えて 父と暮らすまで、料理はしたことがなかったという平川さん。試行錯誤して作ったカレーやチャーハンなどを、●夫さんは「うまい」と喜んで食べてくれたという。父のためにご飯を作る。父を風呂に入れる。そんな日常の小さなことの積み重ねが大事なのだと話してくれた。毎日、夕食が終わるとコーヒーをいれ、二人で味わったそうだ。父と子双方にとって、心安らぐ時間だったのでは、と想像した。

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