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第32回「心に残る医療」体験記コンクール

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[中高生の部・優秀賞] 最高の医療、ホスピス

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大竹 真央(おおたけ まお)(17) 東京都・高校2年

 末期がんになった人に対する医療。そのようなものはあるのだろうか。末期がんはもう救えない。ただだんだん進行していく病に耐えながら、死を待つだけだ。そう思っていた私はずっとそんなものは存在しないと思っていた。“ホスピス”に出会うまでは。

 私の祖母は三年前の夏、末期の胆管がんと診断された。余命半年もないとの宣告だった。もうすでに転移しており、手の施しようがなかった。悲しみと絶望に暮れていた私たち家族が出した決断は、本人に告知はせずに自宅で看取るということだった。その望みを叶えるため、私たちはホスピスの先生方にお願いしたのである。

 初めにホスピスの先生方に言われたことは、辛かったり悲しくなったときは、我慢せずに泣いていいということだった。私はその言葉で心が軽くなったことを覚えている。

 先生方は、毎日のように家に来てくださり、祖母とお話をしながら体調を診てくださった。私たちには分からない体調の変化も見逃さず、私たちにわかりやすく説明してくださった。人懐こい祖母は先生方とすぐに仲良くなり、うちに来てくださるのを楽しみにしていた。いつも楽しそうな祖母の笑顔は今でも忘れることが出来ない。

 そして12月4日、祖母は77歳喜寿の誕生日を迎えた。ずっとほしがっていたケータイ電話をプレゼントし、夕飯は祖母の好物ばかりで、これまでにないほど盛大なものだった。口にはしなかったが、もうこれが最後の誕生日だと分かっていたから。祖母はとても喜び、ありがとう、ありがとうと何回も口にしていた。

 そして次の日の朝、祖母は倒れた。慌ててホスピスの先生方に連絡をするとすぐに来てくださり、ずっと私たちについていてくださった。

 「夜中でもいつでも駆けつけるから大丈夫」

 その言葉に私たちは救われた。そして、

 「耳は最後まで聞こえるから話しかけてあげて」

 たとえ意識がなくても耳は聞こえるそうだ。だから葬式の話などは絶対にしてはならないし、いつものように生活しなければならない。だから私はいっぱい話しかけた。

 「今日合唱発表会の本番だったよ。指揮ちゃんとできたよ。」

 祖母は私が話しかけるとうっすらと目を開け、微笑んでくれた気がする。

 倒れてから4日後、祖母は静かに息を引き取った。最期は娘である母に見守られて逝ったそうだ。亡くなってからすぐにホスピスの先生方が来てくださり、死亡確認を取ってくださった。先生方曰く、亡くなる5日前まで家族と楽しく誕生日パーティーをし、痛みに苦しむ事もなく逝けるという最高の最期は稀らしい。亡き祖母の表情はどこかあどけなく、美しかった。

 祖母の病気を通して私は緩和ケアであるホスピスと出会った。ホスピスは通常の医療のように、病気を治したり、生命を延ばしたりするものではない。しかし患者である祖母が良き最期を迎えられるように、私たち家族が不安の無いようにしてくださった。患者にとっても、家族にとっても最高の医療であったと思う。私は心からホスピスの先生方に感謝すると同時に尊敬している。最後まで祖母に辛すぎる現実を突きつけることはなく、私たちらしい、穏やかで楽しい空気のままいられたから。

 いつか祖母に聞ける時が来たら聞いてみたい。

 「自分の病気を気付いていましたか。」

 「納得のいく最期でしたか。」

 きっと優しい祖母は言うだろう。

 「気づいていたけど、みんなが考えていろいろしてくれていたから、安心して任せていたよ。」

 「みんなと最後まで一緒にいられて幸せだったよ。最高の最期をありがとう。」

 私は末期がん患者にとっての最高の医療に出会った。これからホスピスがさらに注目され、祖母のように最高の最期を迎えられる人が多くなることを願っている。

第32回「心に残る医療」体験記コンクールには、全国から医療や介護にまつわ る体験や思い出をつづった作文が寄せられました。入賞・入選した19作品を紹 介します。

主催:日本医師会、読売新聞社
後援:厚生労働省
協賛:アフラック(アメリカンファミリー生命保険会社)

審査委員<敬称略>
落合 恵子(作家)、竹下 景子(俳優)、ねじめ 正一(作家・詩人)、原 徳壽(厚生労働省医政局長)、外池 徹(アフラック社長)、石川 広己(日本医師会常任理事)、吉田 清久(読売新聞東京本社医療部長)

 

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