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元記者ドクター 心のカルテ

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「うつ」ではなかった娘の心のうごめき(前編)

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ごあいさつ

 「眠れないし疲れる。配慮ばかりが空回りする」「不安に駆られ、いても立ってもいられない」「周囲に見透かされている。たくまれているようだ」

 どうもおかしいと気づきつつも、「残業続きだから」「単なる性格の問題だろう」、あるいは、それこそ「気のせいだ」と逡巡しゅんじゅんし、独り窮してしまってはいないでしょうか。

 「うつは心のかぜ」といった製薬会社主導の啓発文句も、今さらでしょう。職場や学校に行けば、「励まさないで、受けとめて」と、外面そとづらは精神的不調への配慮が浸透しつつあるかのようです。「精神科の『敷居』が低くなった」と言われて久しくもなりました。しかし、そんな甘言に、空々しさを覚えてしまってはいないでしょうか。

 20余年前、新聞記者として、時事の追跡に日夜奔走を強いられるうちに、「出し抜き」競争に向かない自身の愚鈍さ加減に、いよいよ直面せざるを得なくなりました。

 「何をやっても間に合はない そのありふれた仲間のひとり」

 宮沢賢治の詩の一節に自身を重ね合わせたりして、「生きることと死ぬことのあり方」への探求に駆られていきました。「安心して自身のままでいられる場」を手探りした先に、精神科医としての今に行き着きました。

 精神的不調を抱えた方々に寄り添うたびに、自らのあきれるほどの至らぬ行状が照らし出されます。それでも、当事者や地域の方々、医療スタッフの皆でできあがる「治療共同体」につながっていられる喜びは、ひとしおです。

 当事者の苦悩に寄り添わせてもらっている恩への謝意と、至らぬ行状へのあがないを込めて、精神的不調で独り窮していらっしゃる方々に、そっと一歩を踏み出すお手伝いをさせていただけたら――。そんな願いをつづってみたいと存じます。

 さっそく、敷居が低くなったと言われる精神科医療の実際を、垣間見ていただきましょう。はたして、巷間こうかんの甘言通りなのでしょうか――。

 プライバシーを保護するために、事実を若干変えなければなりません。どうかご寛恕かんじょください。

沈黙を破って口にした独り言

 母につき添われて、20歳代の女性が来院した。黒のワンピースに雨用の長靴姿。長い前髪で顔を覆い、うつむくばかり。受診理由を尋ねてみても黙ったままだった。

 「家に閉じこもって、体がつらいと言って、いつも沈んでいます」。母は言葉少なく小声で言い添えた。本人もようやく、「いつもつらい。体が丈夫じゃない」「くるぶしの中が痛い。肩の中がもげてしまう感じ」とつぶやいた。

 母は、娘が「うつ」になったと思い、本人の意思をよそに、連れ立ってこちらの精神科診療所を受診したのだった。

 「うつ」にしては様子がおかしいと判断し、「呼び水」をさし向けた。

 「嫌な声につきまとわれていませんか」「自分の考えや秘密があたりに知れわたって、いたたまれなくなっていませんか」「何者かに操作されて、自分が自分でいられなくなっていませんか」――。そう、静かに問いかけると、本人は、驚いた様子を見せた。初めて視線をこちらに向け、しじまを打ち破った。

 「周りの人に見張られています。近所を自転車で回ったら、何人か発見しました」「家に盗聴器をしかけられています」「天井から、パ、パ、パーと物が落ちてきて、家の中に入ってきました。確認実験ですか? それとも研究?」「私の好きな物があると、周りに伝わっていて、同じ物を好きな人が情報を流して、『あいつを殺しちゃえ』って」――。抑揚なく、独り言のように続けた。

 娘の発する口上に、初耳とばかりに母は戸惑った。続く

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