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[一般の部・入選] 手づくりのノート
森 あや子(もり あやこ)(90) 京都府・無職
一九八七年十月、夫は外出先で突然倒れた。その日、朝十時過ぎ元気に家を出て行った夫の姿を思い浮かべて、私はまだ信じられなかった。意識もなく口もきけない状態なので、家への連絡がおくれ午後三時頃警察署からの電話で、私は娘と病院にかけつける。
その時、夫は救急室のベッドで大きなイビキをかいてよくねむっていた。その姿から私は一種の不吉な予感を受けた。居ても立ってもいられない気持ちだった。こうしているうちにも、夫がしだいに遠くの人になってしまうような不安があった。
突然の入院で何の準備もなく、手術が終わるまでの間に必要なものをととのえるため、娘は帰っていった。
その日。午後五時夫は手術室に入った。脳神経外科部長T先生と脳外科の三人の先生が手術を担当して下さった。六時間に及ぶ手術の間、たったひとりで藁にもすがる思いで手術の成功をひたすら祈るしかなかった。
夜十一時、手術は無事終わった。娘とふたりで白い予防衣に身を包んでNCUへ面会に入る。夫は酸素吸入をして眠っていた。
枕もとに近づき、娘が「お父さん」と声をかけると、かすかに目をあけたようで、また眠ってしまう。いま、夫は死の淵から「生」へ向かって苦しい闘いをしているのであろう。
手術の結果、右半身不随、失語症などの後遺症が残った。主治医の先生から病状を聞かされた時の心理状態は言葉では表せないものであった。
「思ったことをノートに書きなさい。楽になるから。」短い先生のひとこと。私は聆子さん手づくりのノートに気持ちを吐き出すと、戸惑いつつも冷静に現実と向き合うことができ、長い闘病生活に先生の助言がどれだけ心の支えになってくれたことだろう。
毎日ガーゼの交換がはじまる。熱は一週間を過ぎても下がらず脊髄に大きな針を入れて、髄液を抜く処置がされ、結果髄膜炎とのこと。
点滴、鼻管、導尿管、脊髄管と手と足は管だらけ。動いて管を抜かないように両手、両足は太い紐でベッドにしばりつけられている。
術後三週間を過ぎた頃、頭の回復に効果があるという注射を十本点滴といっしょに打つと主治医から言われた。自分の名前も住所も今、入院していることすらわからないのに―。
注射が六本目を数える頃、右手、右足が動きはじめ、短い言葉を取りもどした。てすりと杖にたよる日々の暮らしから、ほんの少しずつ自分の足で歩けるようになった。
一九八八年二月一日。三か月お世話になった脳外科の病院からリハビリテーションセンターに転院する。PT(理学療法)OT(作業療法)ST(言語訓練)の担当の先生方もきまり、夫の自立へのスタートである。
残された機能を最大限に高め、再び家庭、職場にかえるための訓練をする。一般の入院とは本質的にちがい、患者自らの強い意志とたゆまぬ努力が必要である。
動く舗道とでもいうのだろうか。トレッドミルにはじめて挑戦する。これは足を前に出す練習と、体重を支える力を養うための運動と伺った。はじめこわがっていたこの運動も、日を重ねるにつれ時速一・六キロで十分間にアップされる。
両手の上げ降ろしの運動は、滑車からはじまる。次はストレッチ。かたくなった肩の筋肉をのばすことが目的で、指先までやわらかくなるように失われた感覚を徐々に取りもどしてゆく。滑車とストレッチが日課である。
きびしい訓練にもよく耐えて、決して弱音を吐くことは一度もなかった。
言語訓練も平仮名から漢字にうつる。先生が言われた言葉を復唱する。これは案外簡単にできたが、その内容が理解できない。今の夫には相当むつかしい。失語症といわれた夫が、よくここまで言葉を取りもどしてくれたものと、安堵と感謝の気持ちでいっぱい。
夜風が冷たく身にこたえるひと日、聆子さんから小包が届いた。どの品も病院生活に必要なものばかり。殊に手づくりのノートは夫の病床録、そしてその日、その時の心の吐け口ともなり、私の初出版ともなった。
桜の花も満開の頃、紅バラとかすみ草を持って、ちか子さんが病院に来て下さった。そして手づくりの鮪ずしまで―。鮪ずしの甘酢っぱい味が口の中で広がり、女の友情がひしひしと伝わってくる。
七か月の入院から十八年余、思えば長い介護の道のりであった。平成十八年一月十一日。享年八十八歳で夫は黄泉の国へと旅立った。私はサインして柩の枕辺に本をそっと入れた。
「夫、義男さまへ
たくさんの愛をありがとう。あや子。」
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第32回「心に残る医療」体験記コンクールには、全国から医療や介護にまつわ る体験や思い出をつづった作文が寄せられました。入賞・入選した19作品を紹 介します。 主催:日本医師会、読売新聞社 審査委員<敬称略> |
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