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[石井苗子さん]受け止める 迷いはしない

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「忙しかった時は、殺気立って竹刀を振っていた。今は静かな心で道場に立てる」(東京都内で)=大原一郎撮影

 空気の張りつめた道場で竹刀を手にすると、背筋がスッと伸びた。1メートル69の長身がさらに大きく見える。

 竹刀を振り下ろす姿には気迫が漂う。「素振りする時間は、心を整理するのにちょうどいいの」。汗ばんだ顔に笑みを浮かべた。

 剣道に出会ったのは、不惑の年を過ぎてから。女優業の傍らで看護大学に入り、人生で取り組むべき仕事の「芯」を探していた。若い同級生と試験や実習をこなすなか、「体力も精神力も必要」と感じてもいた。

 その矢先、紹介されて警視庁築地警察署の稽古に通うことになった。ところが、道場では初日から気持ちがくじけた。入り口のスノコに土足で上がり、叱り飛ばされたからだ。

 やめる勇気もなく、素振りに通ううちに負けん気が頭をもたげた。気付くと道場通いは15年を超え、三段の腕前に。仕事や学業がつらい時、いつも剣道が気持ちを奮い立たせてくれた。

 東京・浅草の生まれ。高校時代は医者を目指し、医学部を受験したものの失敗。進むべき方向が定まらない娘を父親が案じ、米国の牧師宅のホームステイを勧めた。18歳で渡米し、ボランティアをして地元大学に通った。帰国して上智大学を卒業し、専門学校で英語を磨いて同時通訳になった。

 日米漁業交渉で通訳を務めたが、交渉が決裂して失職。勧められてオーディションを受け、33歳でテレビキャスターになった。「語学ができる知的な女性」がもてはやされ、司会や女優の仕事が次々舞い込んだ。

 そんな華やかな顔とは別に、私生活では苦闘した。20歳代で両親をがんで相次ぎ亡くし、妹の生活を支えてきた。妹は筋萎縮症などの難病を患い、結婚後も同居して世話をしてきた。

 追われるように生きてきて、不安にかられたのは40歳を過ぎた頃だった。人生で本当にすべきことは何か。「専門」と誇れるものを身に着けたい。妹にもっと良いケアもしたいと、看護大学の門をたたいた。

 5年かけて看護師と保健師の資格を取得したが、それを生かせる道が見つからず迷っていると、「知名度を生かして健康管理の重要性を伝える仕事をしてほしい」と教官から言われた。予防保健の専門家が少ないとわかり東大大学院へ。53歳で博士号を取った。

 妹への接し方も変わった。「人が尊厳を持って生きるには社会との接点が必要」。そう学び、自分一人で世話するよりヘルパーを頼むようになった。楽しげに会話する妹を見て、世間から隔ててきたことを反省した。

 「お姉ちゃん、もういいから」。4年前、こう言い残し、妹は49歳で永眠した。その数年前から妹の表情が明るくなったことが喜びだった。笑顔の記憶と最後の言葉が慰めとなった。

 深い喪失感に沈んでいた時、東日本大震災が起きた。自分の知識が役立てばと、被災地に看護師らを送り込む支援を手がけ、自らも被災者の健康状況を聞き取り助言する活動にあたった。

 都内のクリニックで始めたカウンセリングでも、様々な不調で悩む患者の話を聞き、専門機関につなぐ仕事を続けてきた。「あなたにこの気持ちはわからない」と言われても、静かに受け止められるようになった。

 深い葛藤を経て、剣道にも鍛えられ、つらさを受け止める精神力がついた。「悲しい時は悲しさに浸ればいい。後で必ず経験が生きてくる」。心を込めて助言できるようになった。

 女優の仕事にも欲が出てきた。「まだやりつくしていないから、どんな役も断らない」。2月に還暦を迎え、人生の「芯」をつかんだ手応えを感じている。(樋口郁子)

 いしい・みつこ 1954年生まれ。女優、ヘルスケアカウンセラー。通訳を経て、テレビキャスターとして芸能界入り。映画「あげまん」で女優デビュー。50本以上の映画、ドラマ、舞台に出演。2002年に聖路加看護大を卒業し、東大大学院博士課程を修了。保健学博士。

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