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ケアノート

医療・健康・介護のコラム

[宮子あずささん]死と闘い 受け止めた母

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相次ぎ大病 最後には納得

「病床の母とは、戦争や哲学の話など、元気なころと同じような会話もしました。母らしさを残したまま亡くなりました」(東京都内で)=本間光太郎撮影

 女性問題を中心に評論・文筆活動を続けた吉武輝子さんは、2012年4月に80歳で亡くなりました。

 一人娘の宮子あずささん(50)は、看護師の資格を持っています。家族とは別の視点からも吉武さんの晩年を見守りました。「人の老いや病気、人生の最期をどう支えるべきか、母が教えてくれました」と振り返ります。

 母は、女性運動の論客としてデモや集会にも参加する行動派として知られていました。一方、若い頃から膠原(こうげん)病を患い、60代半ばからは慢性肺気腫、大腸がん、慢性骨髄性白血病と大病を相次いで発症、入退院を繰り返すようになりました。

 しかし、「病気になっても病人にはならない」と、体が弱っても、執筆や講演などの仕事を引き受け、携帯用の酸素ボンベにかわいい柄のカバーをつけて全国を飛び回っていました。入院中も病室にトレーニングマシンを持ち込み、「吉武ジム」と称して筋力をつけていたほどです。

女性の自立訴え

 吉武さんは、大学卒業後、映画会社に入社。女性初の宣伝プロデューサーに抜てきされたが、宮子さんを出産し、産休を終えて出社するとデスクワークに配置換えになり、その後、退職した。結婚して子どもを産む女性が、仕事と家庭を両立させることを認めない日本社会に疑問を持ち、評論活動を始め、1975年には、国連国際婦人年の世界会議に出席。女性の自立や差別撤廃を訴えた。

 そんな母を見て育った私は、仕事を持つ女性になろうと思い、看護師になりました。実家を出て自立し、結婚をして、母とは一定の距離を置いて暮らすようになりました。

 実家では、父が2000年に亡くなった後、母は、長年仕事の手伝いをしてくれていた22歳年下の男性と再婚しました。母は、近所の人たちとも親しくつきあい、自宅のカギを渡すほど信頼している人もいました。ヘルパーさんの訪問も受け、最初は、こうした人たちの手当てがつかないときに、私が実家を訪ねていくという形で、母と接する機会が増えていったのです。

 宮子さんは、09年までの22年間、東京都内の病院に勤めた後、大学院で看護学の博士課程の勉強を始めた。精神科病院に通院する患者さん宅への訪問看護の仕事なども非常勤で行っていた。

 母の入院先は、私が長年勤めた病院でした。入院をいつも嫌がり、何とか入院させても、医師をえり好みしたり、治療を拒否したりと、わがままのし放題でした。病院スタッフに顔なじみも多い私は、そんな母が恥ずかしく、しょっちゅうけんかをしたものです。

 10年に白血病を発症してからは、がくんと体力が落ちました。弱くなった母は、以前より私の言うことを聞いてくれました。心細さから「もっといてほしい」と訴えることもありましたが、私は勉強や仕事をやめる気持ちにはなれませんでした。

 女性の自立を説いていた母の介護のために、自分の生活を犠牲にするなんてという思いがあり、母もそれはわかってくれていました。

 母の最後の入院では、私と、母の夫が交代で、食事の介助に病院へ通いました。私は、午前5時に起きて母の病院に行き、朝食を食べさせます。それから訪問看護の仕事に行き、お昼はまた母の病院へ。夕方に母の夫と交代し、夜間は大学院の勉強を続けていました。

 亡くなる1か月ほど前、ついには食事も受け付けなくなった母に、私は「食べないと死んじゃうよ」と言いました。すると母は「食べる。悔しいから」と言い返したのです。

 エネルギッシュな母にとって、病気で自分の行動範囲が狭まることは、非常につらかったと思います。でも、死ぬことが悔しいという気持ちのまま、母に逝ってほしくはありませんでした。

 私は、看護師として、死ぬことの不条理に悩む患者さんを多く見てきました。どんな人生を送ってきた人間でも、いつかは死ななければなりません。でも、「死」は必ずしも敗北ではないはずです。

 社会や差別と闘ってきた母は、最初は、死とも闘うつもりだったのでしょう。でも、死には勝てないという事実を受けとめることも勇気で、母にはそれがありました。

「もういい」と

 亡くなる日の朝、吉武さんは宮子さんの介助でおかゆを食べた後、「もういい」と言った。闘うことへの執着から解き放たれたように、吉武さんは、5時間後に息を引き取った。

 母は、最後は納得してくれたのだと思います。人生が長くなるほど、その引き際をどうするかは難しい課題ですが、看護師には患者さんの葛藤を支える役目もある。私は娘としても看護師としても、いい見送り方ができたと思っています。(聞き手・鳥越恭)

 みやこ・あずさ 1963年、東京都生まれ。明治大中退。東京厚生年金看護専門学校卒。87年から2009年まで東京厚生年金病院に勤務。13年、東京女子医大大学院を修了し、看護学の博士号を取得。看護雑誌を中心に文筆、講演活動を行う。著書に「看護師という生き方」など。

 ◎取材を終えて 〈女性は、“女性としての性”を犠牲にしなければ職業生活が継続出来ないのか〉。記者は、以前、吉武さんが書いた手記を読み、その迫力に圧倒された。「母は家庭でも気性が激しく、『看護師づらするな』と言われたこともあります。あの人と親子をやっていくのは大変でした」と宮子さんは笑う。そんな宮子さんも、自分の考えをはっきり持つ人だと感じた。母のみとり方も最後までぶれず、後悔はなかったはずだ。

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