石井苗子の健康術
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広島の原爆と福島の原発事故の共通点
(心理的な共通点なら、私は実感したことがあります)
私は小学校6年の夏休みに、横浜から広島県福山市に移り住み、中学校は同市の東中学校を卒業しています。高校も広島県立福山誠之館高等学校に行く予定でしたが、また転勤で横浜に戻ってしまいました。
先日、45年ぶりに、心の故郷である福山市で講演をさせていただきました。
控室で着替えながら、ハッと思い出したことがありました。
2011年にあらゆる支援部隊が福島県に駆け付けてきていた頃、広島県の医療支援の方々は、心のケアの専門家たちも含め多くの人たちがその年の最後の方まで残っていらっしゃったことです。私たちのプロジェクト「きぼうときずな」は、保健センターと1年間の継続的支援を約束していましたが、他のボランティアグループは5月の連休や夏のお盆休みなど、きりのいいところでそれぞれ撤退を始めていました。
当時、広島からボランティア活動にきていらした女性とお話をしたことがありました。彼女が、「時代や形は違っても放射能と言う言葉は、私たち市民の心の奥底にある深い言葉なんです」とおっしゃった。
講演会が始まる前に、私はこの女性の言葉を思い出し、自分の中学校時代の思い出と連結することができたのです。中学校にいたころ、夏休みになると社会科の先生が希望者を募って、8月15日の広島の前を歩く企画をやっていました。暑い日にあの町に流れる静かで統制の取れた祈りの雰囲気を、私はいまだに忘れることができないでいます。十代の男女に強い印象を与えた教育でした。
2011年に広島県から来たボランティアグループが、原子力発電所に対する反対の声をあげたりすることは決してありませんでしたが、段ボールの中で生活をする方々や、応急仮設住宅に移って行く家族、子どもが学校で風評被害に遭い差別されているニュースを見ながら、おそらくどこの医療支援活動団体より「絆」という気持ちを強く感じておられたのではないかと私は思うのです。
広島に落ちた原子力爆弾と、福島県に起きた原子力発電所の事故は、先の彼女の言葉ではないですが、時代も形も異なります。戦争で意図的に使われた殺人兵器と、地震と津波によって引き起こされた事故を同一のものとして議論はできないでしょう。放射能の影響についても、過去の広島の研究データが福島の事故に役立つかどうか未知数ですし、放射線の人体への影響については学者たちの間で議論が分かれています。福島県に起きた原発事故は、放射能研究者にとって100年に1回あるかどうかぐらいの研究チャンスとまで言う人もいます。かつては広島県の人たちも、同じような目で世界中から見られていたに違いありません。
戦後70年も
でも、あのとき福島県には広島県から無言の支援者がたくさん来ていた。第二次世界大戦の経験者でもなかったはずです。平和というものが人の心のどこにあれば、崩れない信念を作るのかを物語っているように私には見えました。
2011年の暑い夏、仮設住宅を巡回する現地で、広島県からの活動メンバーと一緒に水を飲んだことを思い出しました。中学校時代の同年代がいたかどうかは分かりませんが、講演会のその日、壇上から会場に向かって感謝の頭をさげる機会に恵まれたことをとてもうれしく感じました。中学の時の教育が私自身の中で実を結んでいると実感できた1日でした。
講演終了後に、小学校6年生の時に一緒になったクラスメートが控室に訪ねてきて「飲み会の残りのお金、ほんの少しなんだけど、寄付金にしていい?」と封筒を渡され、
御礼を言いながら涙が出てきてしまい、新幹線の時間も迫っていたのであいさつもそこそこになってしまいました。
封筒の裏に卒業年度しか書いてなくて、どう御礼の手紙を書けばいいのかと困っています。
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毎年8月になると、原爆記念日が来て、原爆の酷さを我々は再認識します。
平和が長く続くと平和であると言う状態に慣れてしまい。平和が人類の通常の状態であるかの様な錯覚をします。
歴史を振り返って見れば、人類の歴史は戦争の歴史であるのを認識出来るのですが、残念ながら我々は直ぐその事実を忘れてしまいます。
8月の原爆記念日はその意味で毎年我々に平和の有り難さを確認してくれるので、大切です。
所が原爆記念日よりもっと大切な日を我々は忘れています。これは12月8日の真珠湾攻撃の日です。原爆が落された原因を作った日です。原爆と言う結果よりも真珠湾攻撃と言う原因を真正面に見据えて国民全部が認識する事が本当に我々のしなければいけない事だと私は思います。
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6月に20年ぶりに広島に家内と一緒に出かけた。外国の人や修学旅行生で原爆ドームや資料館は混雑していた。旗を持った語り部たちに熱のこもった説明に聞き耳を立てる。終戦を小学5年生で迎えた私たち、語り部に話しかけてみた。驚いたことに戦後生まれだったのです。その方の説明でほとんどの語り部ボラいいティアは戦後生まれとのこと。休憩時間にボランティアの人たちが私たちを取り巻きました。
広島の惨状を彼らの方がもちろんよく知っていました。しかし私たち夫婦は当時の生活を彼らに話すことがで来ました。殺気だった世相の中で生きていた広島市民に、追い打ちをかける惨事が待っていたのです。当時の小学生、中学生の生活の様子、金属を取り上げられた生活など、語り部たちから質問攻めに遭いました。
瀕死状態でもまた勝てるという一縷の望みを持って行動していた国民が大半、「勝つまでは欲しがりません」の中で落とされた原爆、有名な黒焦げの弁当箱、不思議なことにご飯が入っていたのです。東京の私たちの弁当箱には米粒が入っていたのは珍しかったのです。
それを聞いた語り部の一人が、説明する内容を少し変えないといけないと言っていました。もし私が語り部であったなら、当時の少年少女たちの生活を交え、さらに平和の大切さをお話しできるような気が致しました。
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