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[林家木久扇さん]「錦絵」でも人を喜ばせ

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手描きした錦絵の原画に囲まれ、「楽しく描くから仕事が早いんです。1枚2、3日で描いちゃう」(東京都内で)=立石紀和撮影

 水遊びや相撲に興じる子ども、忙しく立ち働く着物姿の町娘――。

 日本画の手法で描いた絵や、「錦絵」風に仕上げた作品を並べると、小さなアトリエは花が咲いたように明るくなった。

 日本画のプロから習いつつ、こうした作品を描くようになったのは、落語家として軌道に乗り始めた30歳ごろ。多忙な合間にも描き続け、落語の世界をイメージさせる画風が人気に。独自に工夫した多色刷りは「木久蔵錦絵」と名付けた。

 錦絵との出会いは、生家の近くにあった東京・日本橋の劇場「明治座」に掲げられた、鮮やかな絵に目を奪われたことだった。「子ども心にも、『きれいだなあ』と思ってね。まねして描いていました」

 大人になり、錦絵のほか、漫画や時代劇スターの似顔絵、子ども向け絵本まで、多彩な作品を手がけてきた。デパートで個展を開き、画集も出した。絵本は5年前、初孫が生まれたので作ってみた。

 「孫に尊敬されたいと思って出したの。でも、渡しても、パラパラッとめくって置いちゃうの」。孫の反応は今ひとつでも、描くことが楽しくてやめられない。

 絵が得意な子どもだった。「うまいねえ」と褒められてさらに好きになり、漫画を描いて祖母や近所のおばさんに渡すと、せんべいや金平糖などがもらえた。

 戦争中、疎開した青森では地元の子からいじめられたが、戦車や飛行機などを精巧に描いて渡すと、いじめはやんで人気者になった。

 高校卒業後、食品会社に勤めた。「やっぱり好きな絵で身を立てたい」と退職。カッパの漫画で知られた漫画家・清水崑の書生になったが、登場人物の物まねをしながら描く様子に、師匠は「お前さんは芸人向き」と落語家を勧め、桂三木助師匠を紹介された。

 「落語家になるなんて思ってもなかった。でも、先生が勧めるならそうかなあとその気になってね」

 22歳で入門。三木助師匠の死後、林家彦六師匠の元に移り、前座、二ツ目と昇進した。人気を得たのは、日本テレビ系の「笑点」への出演がきっかけ。「雨が漏りますね」「やぁねぇ(屋根)」などのダジャレや、とぼけた回答で親しまれ、出演は今も続く。

 落語でも、35歳で真打ちに。創作落語が当たり、人気者の座を不動にした。

 だが、落語の修業中も、絵を忘れたことはなかった。前座の頃は、本の挿絵や似顔絵などで生活費を稼ぎ、時間に余裕ができると、錦絵も始めた。「落語家は天職。でも、絵を描いていると本当にワクワクする。だから、絵の注文があれば断らないんです」

 全国ラーメン党の会長や日本漫画家協会参与などを務め、俳句も詠む。自分を「小さなデパート」に例え、落語も絵もラーメンも、人を喜ばせる商品だと言う。

 「東京大空襲で友達が亡くなり、街が消えた。死んでもおかしくないのに生き残ったから、人を喜ばせることや好きなことをやろうと思って、生きてきた」

 76歳の今、集大成にと夢想するのは、「寿限無」などの言葉遊びを子どもに伝える落語絵本シリーズの出版だ。

 「絶対、学校図書推薦をもらえる本にしたいんです。全国の図書館が2冊ずつ買ってくだされば、もうベストセラーですよ」

 どこまでも、ちゃめっ気を忘れない。(針原陽子)

 はやしや・きくおう 落語家。1937年、東京生まれ。60年、桂三木助に弟子入り。林家彦六(八代目林家正蔵)門下に移り、前座・林家木久蔵となる。73年に真打ち昇進。創作落語「彦六伝」で人気確立。2007年、木久蔵の名を長男に譲り、木久扇に。落語協会相談役、日本漫画家協会参与。

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