がんと向き合う ~腫瘍内科医・高野利実の診察室~・コラム
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イレッサから学ぶ生産的教訓
Tさん(70)は、バンコク在住の日本人ビジネスマンで、3年前に、肺の影と、骨転移、肝転移が見つかり、検査を受けた結果、進行肺がんと診断されました。イレッサがよく効く「EGFR遺伝子変異」があるタイプの肺がんであることもわかりました。
バンコクの病院で、骨転移に対する放射線治療を受けながら、イレッサや抗がん剤治療の説明もされましたが、「できれば副作用の強い治療は避けたい」という思いが先に立ち、治療に踏み切れずにいました。インターネットで検索すれば、イレッサの副作用や、「薬害」をめぐる裁判の話がたくさん出てきて、恐怖心を
2010年の年末、日本に一時帰国したTさんは、私の診察室にセカンドオピニオンを求めてやってきました。私は、治療のリスクとベネフィット(延命効果)について、改めて説明しました。
「イレッサには、間質性肺炎で死亡するリスクも2%程度ありますが、EGFR遺伝子変異があれば、ベネフィットを得られる可能性は高く、十分にお勧めできます」
治療を決断したTさんの笑顔
Tさんは、迷った末にイレッサ治療を受けることを決断し、年明けには、バンコクに戻っていきました。
以来、音沙汰なく、時はすぎていきましたが、そんなTさんが、先週、突然私の診察室に来られました。あれから約3年、バンコクで、イレッサを飲みながら、精力的に仕事に励んでいるそうです。見た目もとてもお元気そうで、つい、「こんなにお元気だなんて奇跡的ですね」と言ってしまいました。「あのときは迷っていたけど、先生と話し合って、イレッサを飲むことに決めてよかった」
「どこにいたって、私の主治医は高野先生ですから」
Tさんの帰国はあの時以来ということでしたが、3年前に一度会っただけの私を主治医と呼んで、わざわざ来てくれるというのは、
進行肺がんは厳しい病気ですが、薬物療法の進歩もあり、Tさんのように数年にわたって元気に過ごされる患者さんも、珍しい存在ではなくなりました。緩和ケアをきちんと行いながら、イレッサのような分子標的治療薬や抗がん剤も適切に使用することで、「がんとうまく長くつきあう」ことができるようになってきた気がします。
ただ、治療が効かず、急速に進行してしまう患者さんもたくさんおられますし、治療の副作用で命を落としてしまう方もおられます。
私の患者さんでも、イレッサがよく効いた人、期待したほどには効かなかった人、間質性肺炎で亡くなった人など、いろいろな方がいます。イレッサを使うかどうかを迷い、使い始めたあとも、効果と副作用に一喜一憂しながら、一人ひとりが、その人なりの生きざまで、生き抜いています。患者さんの数だけ、かけがえのないドラマがあるわけです。
イレッサは、2002年7月の承認から、約2年半の間に、約42,000人の患者さんに使用され、そのうち588人が副作用で亡くなったと報告されています。マスメディアは、副作用で亡くなった方のドラマをセンセーショナルに取り上げながら、亡くなった人の数を強調しました。
でも、皆さんは、イレッサを使った42,000人のうち、「588人」以外の人たちにどんなドラマがあったのか、想像したことはあるでしょうか。また、「588人」という数字を伝えた記者は、そういう想像力を持っていたのでしょうか。
命を縮めた人のドラマと効果を享受した人のドラマ
厳しい話ですが、あれから約10年が経(た)っていますので、42,000人の大部分はこの世にはいません。「588人」についても、「イレッサを使っていなければ、今も元気にしていたはずなのに」ということにはなりません。
「588人」の中には、イレッサを使わなかった場合よりは長生きできたけども、結局、副作用で命を落としてしまった、という人もいるはずですが、多くは、イレッサを使ったために命を縮めてしまったと考えられます。副作用の報告が不完全であったことも考慮すれば、命を縮めてしまった人は800人くらいになるでしょうか。
私なりに推測すると、42,000人の内訳は、おおよそ、次のようになります。
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副作用で命を縮めてしまった人のドラマを伝えるのであれば、その20倍はいたと思われる、延命効果を享受できた人のドラマも伝えるべきだったのではないか、という気がします。
Tさんのように、生きがいの仕事に打ち込めた人もいたでしょうし、イレッサのおかげで娘さんの花嫁姿を見ることができたという人もいたでしょう。私の脳裏にもいろんな患者さんのドラマが浮かびます。
イレッサ承認当初は、「イレッサがよく効く人」を見分ける方法が十分には確立していなかったため、肺がんというだけで、多くの人にイレッサが使われていたのですが、がん細胞に「EGFR遺伝子変異」があるかないかで、イレッサの効果をあらかじめ予測できるという事実が発見された2004年以降は、効果の期待できる人を選んで、イレッサを積極的に使用するようになっています。
Tさんの肺がんも、「EGFR遺伝子変異」のあるタイプでしたので、「リスクがあってもそれを上回るベネフィットが期待できる」ということになり、ご本人にも、それを説明して、イレッサを使うことを勧めたわけです。3年ぶりに私の診察室に来られたTさんの笑顔を見て、その判断が間違っていなかったことを確信しました。
イレッサをめぐる様々なできごとは、人々が、「リスクとベネフィットのバランス」や「エビデンスに基づく医療」について考える、絶好の機会だったのですが、残念なことに、これまでの議論は、「善悪二元論」と「センセーショナリズム」と「ゼロリスク症候群」に流れてしまい、本質的な議論にはなりませんでした。
これからは、もう少し冷静になって、この11年間の経験から、生産的な教訓を学ぶべきなのだと思います。
命を縮めてしまった人の存在だけでイレッサを悪者にしてしまうのではなく、その背後にある何万ものドラマにも思いを
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