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がんと向き合う ~腫瘍内科医・高野利実の診察室~・コラム

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イレッサ問題に学ぶ

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 「肺がんに対して、お薬による治療を行います。検査したところ、イレッサというお薬がよく効くタイプであることがわかりましたので、まずは、イレッサを使いたいと思います」

 「えっ、イレッサですか? 薬害で何百人もの死者が出たっていう、あの恐ろしい薬を私が飲むんですか?」

 「たしかに、間質性肺炎という副作用で亡くなるリスクは2%程度あります。でも、いい状態を保ちながら長生きできるというベネフィットが十分に期待できますので…」

 「副作用で死ぬなんて、ありえません。たとえ命が助かるとしても、そんな薬は使いません!」

 イレッサの副作用が社会問題になっていた頃、こんな会話が、全国の診察室で、よく交わされていました。

 

生産的な議論、なされぬまま

 「夢の新薬」として華々しく登場した後、副作用による死亡例が相次いで報告されると一転して「悪魔の毒薬」と言われるようになったイレッサ。副作用は「薬害」と呼ばれ、「社会問題」になりました。マスメディアでも盛んに取り上げられ、裁判でも激しく争われましたが、結局、「善悪二元論」と「センセーショナリズム」と「ゼロリスク症候群」に翻弄され続け、生産的な議論がなされぬまま、今に至っています。本来、この議論に中心にいるべき患者さんの思いは置き去りにされ、裁判が終結したあとも、医療現場にはむなしさだけが残っています。

 私たちは、この「イレッサ問題」から何を学ぶべきなのでしょうか? 今、進行がんと向き合っている患者さんは、どう考えればよいのでしょうか?

 この連載で繰り返し取り上げてきた、「エビデンス」と「リスクとベネフィットのバランス」をキーワードに、イレッサ問題を今一度、考え直したいと思います。

 

 イレッサは、根治の難しい進行肺がんの治療薬として使われる「分子標的治療薬」です。分子標的治療薬というのは、がん細胞の増殖にかかわる、アキレスけんのような分子(たんぱく質や遺伝子)を標的とする薬剤で、近年承認されているがんの治療薬の多くはこのタイプです。イレッサの場合は、「EGFR」という分子を標的としています。

 肺がんに対する最初の分子標的治療薬として注目を集めていたイレッサは、2002年7月、世界に先駆けて、日本で承認されました。承認当初は、「夢の新薬」として、マスメディアにも頻繁に登場し、多くの患者さんの期待をあおりました。しかし、2002年10月に、副作用(主に、間質性肺炎)による死亡例が報道されてからは、副作用によって亡くなった患者さんの数だけが、ひたすら新聞の見出しを飾るようになりました。

「肺がん薬で13人死亡」

「副作用死124人に」

「イレッサ死者173人に増加」

 「イレッサ」という単語には、きまって、「副作用死が問題となっている」という枕ことばがつき、この頃の記事の中では、イレッサのベネフィット(効果)が解説されることはほとんどありませんでした。イレッサは完全に悪者扱いで、次々と更新される死者数は、多くの患者さんの不安を煽りました。

 承認から約2年半の間に、約4万2000人の患者さんにイレッサが使用され、そのうち588人が副作用で亡くなったと報告されています。すべての副作用死が報告されているわけではありませんし、使用した患者さんの数の推計も必ずしも正確ではありませんが、この頃の様々な報告を総合すると、イレッサを使用した患者さんのうち約2%が、副作用で死亡したと考えられます。

 「588人の死亡」は、数の上では、ジャンボジェット機の墜落よりも重大な出来事ですので、「悪魔の毒薬」としてのイメージを浸透させるのに十分な情報でしたが、これからイレッサを使おうという患者さんが、イレッサのリスクを判断する際に必要な数字は、「588人」ではなく、「2%」の方です。そして、副作用で死亡する確率が2%というのは、進行肺がんに対する従来の抗がん剤の副作用死の確率と同程度です。

 このあたりの数字の扱いをみても、「リスクとベネフィットのバランス」よりも「センセーショナリズム」が優先されていることがよくわかります。

 

医療現場とかけ離れた意見

 「悪魔の毒薬」のイメージが社会に浸透していた頃、医療現場では、多くの医師が違う印象を持っていました。

 「呼吸困難でぐったりとしていた患者さんが、イレッサを飲んで数日で見違えるように回復した」

 「こんなに効果のある薬を見たのは初めて」

 「イレッサが効く人と効かない人がはっきりわかれるようだが、効く人には、相当な延命効果がありそうだ」

 ただ、こういう、「経験」や「印象」は、質の高い「エビデンス」とは言えませんので、この時期、現場で治療を行っている医師が公の場で、このような「劇的な効果」を証言することはほとんどありませんでした。

 「エビデンス」を重視する医師たちは、科学的でない「印象」を語ることを避けますので、新聞やテレビの取材を受けても、できるだけ客観的な表現で説明しようとしたためわかりにくかったのか、マスメディアにはあまり取り上げられませんでした。

 この頃、マスメディアに頻繁に登場していたのは、医療現場で患者さんを実際に診ているとは思えない「専門家」の医師で、センセーショナルな言葉を使ってイレッサの恐ろしさを訴えかけていました。現場の医師たちは、自分たちの感覚とはかけ離れた意見が繰り返し流されるのを、非常にもどかしい思いで眺めていました。

 初期の臨床試験で、イレッサの延命効果が明確には証明されなかったことも、イレッサを糾弾する「専門家」を勢いづかせました。臨床試験の結果は、

 「イレッサの効果を予測する因子で患者さんを選択しなかった場合、全体として、明確な延命効果を証明するには至らなかったが、東洋人や非喫煙者に限っては、イレッサの延命効果が示唆された」

 「イレッサの延命効果が、従来の抗がん剤と比べて劣ることがない、ということを調べようとした臨床試験では、試験の設定に問題があり、明確な結論を得ることができなかった」

 というものでしたが、この「科学的な説明」が、あまりにすっきりしない(わけがわからない)ので、結局、新聞の見出しになったのは、

「イレッサに延命効果なし」

 でした。

 

不毛な状況を脱し、前進を

 現場の医師が丁寧に説明しようとすればするほど、そのコメントは、マスメディアでは取り上げられにくくなり、ズバッとイレッサを斬り捨てるコメントが好んで使われました。

 報道が、「エビデンス」よりも「センセーショナリズム」に、「リスクとベネフィットのバランス」よりも「善悪二元論」に流れていったために、患者さんたちは、今も、過剰な期待を煽られたり、過剰な不安を煽られたりして、冷静な判断を妨げられています。イレッサ問題が生じてから11年がった今、患者も、国民も、専門家も、現場の医師も、マスメディアも、そろそろ、不毛な状況から抜け出て、前進すべきなのではないかと思います。

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高野先生コラム_顔120

高野利実(たかの・としみ)

 がん研有明病院 院長補佐・乳腺内科部長
 1972年東京生まれ。98年、東京大学医学部卒業。腫瘍内科医を志し、同大附属病院や国立がんセンター中央病院などで経験を積んだ。2005年、東京共済病院に腫瘍内科を開設。08年、帝京大学医学部附属病院腫瘍内科開設に伴い講師として赴任。10年、虎の門病院臨床腫瘍科に部長として赴任し、3つ目の「腫瘍内科」を立ち上げた。この間、様々ながんの診療や臨床研究に取り組むとともに、多くの腫瘍内科医を育成した。20年、がん研有明病院に乳腺内科部長として赴任し、21年には院長補佐となり、新たなチャレンジを続けている。西日本がん研究機構(WJOG)乳腺委員長も務め、乳がんに関する全国規模の臨床試験や医師主導治験に取り組んでいる。著書に、「がんとともに、自分らしく生きる―希望をもって、がんと向き合う『HBM』のすすめ―」(きずな出版)や、「気持ちがラクになる がんとの向き合い方」(ビジネス社)がある。

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