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海原純子のハート通信

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人をサポートする人 “燃え尽き”に注意

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 1970年代、バーンアウト(燃え尽き)症候群という言葉が流行語になったことがあります。米国の精神科医が、医師や看護師など精神的な援助の仕事をする人にみられる職業障害と報告したことがきっかけです。

 人のサポートをするために自分の感情を抑え、無理をすることが続いたり、仕事に対する責任感が強く、理想に燃えてがんばったりする人が、あまり期待していないような結果になった時などに、心の疲労感を感じてイライラしたり、人に会いたくなくなったり、不眠や体調不良になったりします。そして仕事に対する熱意もなくなり、出勤したくなくなるような“燃え尽き”を起こすことが燃え尽き症候群です。

 人をサポートするような仕事に関わる人は、自分の生活を二の次にして仕事をすることもしばしば。しかも、それが当たり前なこととみられてしまうことなどが、こうした症状の背景といえるでしょう。仕事と同時に、自分の生活や自分の時間のゆとりとのバランスを考えたり、仲間同士でサポートし合ったりするなど、人に関わる仕事につく人は、燃え尽きない工夫が必要です。

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海原純子ブログ_顔87

海原 純子(うみはら じゅんこ)

1976年東京慈恵会医科大学卒業。日本医科大学特任教授。医学博士。2008-2010年、ハーバード大学及びDana-Farber研究所・客員研究員。現在はハーバード大学ヘルスコミュニケーション研究室と連携をとりながら研究活動を行っている。

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3件 のコメント

78歳まで仕事一途だったからこそ

めざめたじいさん

父親が義母に託した事業所、名義だけ貸した格好で義娘に任せ、ほとんど事業所に顔も見せませんでした。うん十万円で運営しなさいと。実の娘は父親の意向を...

父親が義母に託した事業所、名義だけ貸した格好で義娘に任せ、ほとんど事業所に顔も見せませんでした。うん十万円で運営しなさいと。
実の娘は父親の意向を汲んで、地道の努力を重ね、子どもの学校行事への参加は、じい任せ。家事も人を雇い、日曜日さえとれませんでした。生き物の世話、用務員を頼まず落ち葉の時期は一日中集めては燃やし、労務者でした。客が来ても「事業所主さんは」と聞かれ、いま出ていますで済んだほどでした。
退職支店1年半、未だに心の中は事業所に向いているかのようです。

なんとなく生きている女性さんの働く目的・・
>何かするのも生活の為やお金の為というのが根本にありました。

これはまったくありませんでした。生活費はじいが全て稼ぎ、晩年の経理は毎年数百万円積み立てが出来るほどになっていました。

目的は、事業所を頼ってくる人、とりわけ障害を持っている方、他の事業所では受け入れないと言われた方でも快く受け入れ、都知事表書を受けました。その前に市から表彰され、推薦されたものです。

これだけ思い入れのあった仕事、急に辞職ですから燃え尽きたのです。

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78歳までお仕事されてもこう思うのですか

56歳のなんとなく生きている女性

燃え尽き症候群や空の巣症候群と言う言葉がありますが、78歳まで働いてもこの様に思う方もいらっしゃるのですね。私は子供の時から自分が結婚するまでお...

燃え尽き症候群や空の巣症候群と言う言葉がありますが、78歳まで働いてもこの様に思う方もいらっしゃるのですね。

私は子供の時から自分が結婚するまでお金に余裕がある環境ではなかったので、何かするのも生活の為やお金の為というのが根本にありました。
例えば勉強もいい仕事に就くため、仕事がつらくても家賃を払う、生活をするために働きました。
結婚後は生活は楽ではなかったのですが、子育てでそれは仕事をしている時の様な気持ちで一生懸命やりました。
今は子供も大きくなり家族は皆健康ですし、お金の心配もなく、自分の趣味に使えるお金もあります。自分が描いていた理想の生活です。
でもこういう風にしたことがないので、いざしてみても楽しくありません。慣れていないのです。
昔、疲れてやっと布団に入って、ああ極楽極楽と思った時のような満足感がありません。
このままだらだらしていつか逝く時が来るのかなと思っています。まだまだ若いのにです。
働くのはお金のためで趣味では働けません。
きっと感謝が足りないのだと思います。

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自認、燃え尽き症候群

めざめたじいさん

だから言わぬことはない…・・78歳まで仕事一筋、事業所の責任者として。子どもの母親として、私の妻として、全てに献身的に努めた53年間。身体に負っ...

だから言わぬことはない…・・

78歳まで仕事一筋、事業所の責任者として。子どもの母親として、私の妻として、全てに献身的に努めた53年間。身体に負ったガンと闘い、全身麻酔の手術を6回も受け、なおも病魔は彼女を襲っている。

後継者が育つまで、死にものぐるいで働いた。辞職を口にし始めてから10年、もはやこれまでと事業所から手を引いた。信頼されていたにもかかわらず、引き留める人はいなかった。「もう十分ですよ、そろそろご自分の生活を始めたら如何」の声が多かった。

ところがどうでしょう。あの楽しみも、この遊びも、その趣味も、自由の身になったのだから何でもできる。人に気兼ねしないで、周りの人に迷惑をかけないで、ある程度の蓄えも持っている、こんなに恵まれた中で、ようやく探し当てた趣味の会。

気づけば何も知らないことばかり、人に者を尋ねようとして気づいた、うすうす感じてはいたが耳が不自由になっていた。美味しいものを食べようとして気づいた、歯も丈夫ではなかった。ゆっくりテレビでも見ようとして気づいた、目にも老化が忍び寄っていた。遠出をして始めて気づいた、足もかなり衰えていた。新しい街に引っ越して気づいた、知っていたはずの街は、すっかり模様替えして昔の駅ではなかった。

人から頼りにされ、どんなことでも相談かけてきた、、、ふと我に返ってみると、余命と言われていた年になっていた。物憂い日々、何を食べても美味しいと感じない、どんな美しい音楽を聴いても感動は薄い、ベッドに横になっているととても身体が楽だがこのまま寝ていていいのだろうか。仕事をしなくてもよかったのだろうか。家の中の仕事は亭主がほとんどしてしまう。これが燃え尽き症候群なのだろうか?

と、じいが見た家内の様子。それを克服するのはかなりエネルギーが必要だと感じています。

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