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一緒に学ぼう 社会保障のABC

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国民皆保険・皆年金(6)年金の歴史

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 国民皆保険・皆年金を理解する際のカギともいえる「社会保険」の仕組みについて、これまで何回かにわたって見てきました。いよいよ、日本はなぜ、皆保険・皆年金という仕組みにしたのか、その理由を探っていきたいと思います。

 まず、年金制度から見ていきます。国民皆年金は1961年に実現しましたが、そこに至るまでの歴史を振り返ってみたいと思います。



戦力増強のため?

 日本で、一般の民間労働者を対象とした初の公的年金保険は、1939年に制定された船員保険制度です。その名の通り、船員が対象で、年金だけでなく、医療なども保障する総合保険でした。なぜ船員なのか? それは、戦時体制下で海運業の重要性が高まり、船員の確保・定着が国の緊急課題になっていたにもかかわらず、船員が引退した際の所得保障や、亡くなった際の遺族保障が十分ではなかったからです。

 船員保険ができると、一般の陸上労働者を対象とした年金制度も作ろうという機運が高まり、1941年に、労働者年金保険制度が創設されました。1937年から始まった日中戦争が泥沼化し、軍部には制度創設への反対論もあったといいますが、労働者の老後の不安を除いて安心感を与え、生産活動に専念させることが、生産性の拡充、ひいては戦力増強につながると、当時の厚生省が説得したといいます。

 戦争が、社会保障制度の中核を成す社会保険の発展に一役買ったというのは意外な感じがしますが、後で述べるように、国民皆保険の実現に至る歴史を見ても、戦争は一定の役割を果たしています。もちろん、戦争がなければ社会保険は発展しない、などということは全くありませんが、「戦争は社会政策を後退せしめるのが常であるが、わが国では戦争によってむしろ社会政策の一手段である社会保険の発展をもたらしたのである」(1963年に発行された近藤文二氏による著作、「社会保険」より)という事実は興味深いと思います。

 この労働者年金保険は、1944年に厚生年金保険と名前が改められ、男性ブルーカラー(肉体労働者)だけでなく、女性や、ホワイトカラー(事務労働者)も対象となり、加入者も増えていきました。



存亡の危機

 太平洋戦争が終結した1945年、日本の国土は焦土と化し、街には生活困窮者があふれました。厚生年金保険も、保険料の徴収が困難となり、敗戦直後に起きた激しいインフレ(貨幣価値が下がり、物価が上がること)によって、給付のために積み立てられていたお金の実質価値が下がり、制度崩壊の危機にさらされました。制度廃止論まで出るなか、厚生年金保険は改正を重ね、1954年の全面改正で、現在の厚生年金保険の骨格が築かれました。その後、景気の回復に伴う雇用の拡大により、加入者は増えていきました。

 戦後の復興期を経て、高度経済成長期に入った1955年頃から、全国民を対象とした国民年金制度を作ろうという機運が盛り上がっていきました。当時、公的年金制度としては、既に紹介した厚生年金保険や船員保険のほか、公務員を対象とした制度はありましたが、農民や漁民、自営業者、それに厚生年金保険の対象にならない零細事業所に勤める労働者などには、何の年金保障もなかったからです。また、既にある年金制度の適用を受けている人も、全就業人口の約3割をカバーしているに過ぎなかったためです。



高齢者問題も影響

 国民年金が必要とされた背景には、戦後、徐々に進んできた人口の高齢化や、家族制度の崩壊で、高齢者の老後の面倒を誰が見るのかといった問題がメディアでも取り上げられるようになり、その過程で、年金制度の対象とならない人々の問題が広く社会の関心を集めるようになったことも挙げられます。

 高齢化というと、現在のことで、半世紀も前の話ではないのでは? と思われる方もいると思います。確かに、当時の高齢化率(65歳以上が全人口に占める割合)は5%台と、現在の「世界一」といわれる高齢化率(24%)と比べると雲泥の差があります。

 しかし、当時、厚生省の官僚で、生活保護法や国民年金制度の制定にかかわった小山進次郎氏の著書(「国民年金法の解説」、1959年)を見ると、日本でも高齢化が目立ち始め、それは今後ますます進むから、老人扶養の問題をどうするかは国民が一致して解決に当たらなければならない一大社会問題であること、また、家族制度にも崩壊の兆しが見られ、それは今後ますます激しくなっていくから、高齢者が子の扶養に全面的によりかからないで済む国家的な対策が必要であること、などが述べられています。

 もう一つ、この本で注目されるのは、年金制度が「救貧」ではなく「防貧」対策であると述べている点です。つまり、既に放置できないほど困った状態にある人を救う制度ではなく、困窮した状態に陥らないよう、未然に防ぐ制度であるという意味です。そうした防貧対策を推進できるようになった背景には、経済発展の力も大きいとも説明されています。



政党が競い合う

 国民年金制度創設には、政治も大きな役割を果たしました。

 1955年に、それまで左右両派に分かれていた社会党が統一され、同じ年に、自由党と日本民主党の保守合同により、自由民主党(自民党)が結成されました(以後、日本の政治は、自民党が代表する保守と、社会党が代表する革新の対決という、いわゆる「55年体制」が始まります)。両党とも、国民年金制度創設を掲げ、1956年の参院選挙では、年金などの社会保障政策が焦点の一つとなりました。

 1958年に行われた衆院選挙で、自民党は、国民年金制度の翌年度からの実施を公約し、選挙の過程で、当時の岸信介総裁は、「国民年金制度は今回の公約で最も注目すべきものであり、これを実施することにより、社会保障の画期的前進を期したい。これにより生活力に恵まれない老齢者、母子世帯、身体障害者の生活が保障されることになり、福祉国家の完成へ大きく前進することになると信ずる」と述べています。岸首相は、現在の安倍首相の祖父にあたる人です。

 衆院選で自民党が勝ったことから、国民年金制度創設は国の“至上命題”となり、1959年に国民年金法が可決・成立し、1961年に国民皆年金が実現しました。その内容や基本的な考え方などについては、次回、見てみたいと思います。

 なお、読売新聞の過去の記事を見ていたら、「老後の生活保障を推進せよ」(1956年9月15日朝刊)という社説がありました。興味のある方は、下記をクリックして読んでみて下さい。

「老後の生活保障を推進せよ」(1956年9月15日朝刊)

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inokuma

猪熊律子(いのくま・りつこ)
読売新聞東京本社社会保障部デスク。 1985年、読売新聞社に入社。地方部、生活情報部などを経て、2000年から社会保障部に在籍。1998~99年、フルブライト奨学生兼読売新聞海外留学生として、米スタンフォード大学のジャーナリスト向けプログラム「ジョン・エス・ナイト・フェローシップ」に留学。2009年、早稲田大学大学院法学研究科修士課程修了(社会保障法)。好きな物:ワイン、映画、旅、歌など。著書に「社会保障のグランドデザイン~記者の眼でとらえた『生活保障』構築への新たな視点」(中央法規)など。

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