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ケアノート

医療・健康・介護のコラム

[山本譲二さん]ホーム入居 母に頼む

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自分の気持ちを正直に

「母が僕のことをわからなくなる。そんな想像をしてしまうこともあります。だからこそ、今を大事にしたい」(東京都内で)=鷹見安浩撮影

 歌手山本譲二さん(63)の母ハルヱさん(88)は、山口県下関市の老人ホームで暮らしています。

 山本さんは、母の認知症が進んだ時期と自分や妻の病気が重なり、悩みは尽きませんでした。ホームへの入居を勧める時、「正直に自分の気持ちを伝えたら、わかってもらえた」といいます。

認知症が進行

 3年ほど前、下関の実家へ母を訪ねた時のことです。「子どもはどうしてる?」と聞くので近況を話したのですが、何度も同じ質問をしてくる。ついイライラして、「何回同じこと聞くの」と、強い調子で言ってしまいました。あの頃が母の異変の始まりだったのかもしれません。

 そのうちに、「変だな」と感じることが増えてきました。母の作るみそ汁の味がすごく薄かったり、ご飯が硬すぎたりするのです。

 父は14年前に他界し、母は長らく一人暮らしをしていました。私は大体1、2か月に1度、顔を見せに帰省し、そのたびに「東京で一緒に暮らそう」と誘いました。しかし、「お父さんのお墓は誰がみるの」とうなずいてくれません。「譲二に連れて行かれる。帰ってくるのが怖い」と周囲に漏らしていたことは、後で知りました。

 母の症状は、徐々に悪化していきました。毎日、様子を見に行ってくれる地元の親戚から、「鍋の火をつけたまま忘れていたようだ」「風呂を空だきしていた」などと電話で聞かされるたび、なんとかしなければと焦りました。

 ハルヱさんは認知症と診断された。実家での生活を希望する母に、老人ホームへの入所をどう納得してもらうのか、山本さんは悩んだ。

 ホームに入ってもらおうと決断したのは2011年の年末です。親戚と相談した後、東京へ戻る飛行機の中で、母にどう話すべきか考えましたが答えは出ません。結局、「お袋の顔を見たら、何か言葉が出てくるだろう」と腹をくくりました。

 年が明けて正月、母に会いに行きました。「俺、一つだけ悩みがあるんだ。それはお袋しか解決できないんだ」と切り出しました。ホームの件を伝えると、「なんで家を出なくちゃならないの」と母。私は「だから悩んでいる」と言うしかありません。すると母は、「ホームに入れば、譲二の悩みはなくなるの?」と話を聞いてくれました。私はきっぱり、「なくなる」と答えました。1か月間、試しに泊まってみるという条件で納得してくれました。

 「悩みがある」と私が言った瞬間、母の背筋がピンと伸びて、若かった頃の表情に戻ったのを鮮明に覚えています。今にして思うと、「周りに迷惑をかける」などと母の責任にすり替えずに、「俺自身の悩みなんだ」と正直に告白したから、わかってもらえたのかもしれません。

 入居したのは関門海峡が一望できる部屋。1か月後にホームを訪ねると、友達も出来たみたいで、母は「(家に)帰らんでもええよ」と気に入った様子でした。ホッとしました。

夫婦とも病気

 山本さんは2009年7月、右耳の聴覚を失い、妻・悦子さん(58)は10年9月に乳がんの手術を受けた。それは、ハルヱさんの認知症が進んでいた時期と重なる。

 朝のウオーキング中、右耳が聞こえていないことに気づきました。原因は右耳の奥にある神経の腫瘍。手術をすると顔面にマヒが残る可能性があると告げられました。良性だったので、「手術はせずに仕事をする」と決めたものの、心は晴れませんでした。

 妻に乳がんが見つかったのはその1年後です。打ち明けられた時は言葉を失いました。「誰にも言わないで」というので、周囲には相談せずに黙っていました。幸い手術は成功しましたが、笑顔で仕事をしている時ほどしんどかった。

 そんな状況のときに、母の様子がおかしいという情報が入ってくるのです。当時は、「俺って、よっぽど悪い生き方してきたのかな」と思い詰めたりもしました。

月1回の訪問

 ハルヱさんはホームでの生活にすっかり慣れ、元気に暮らしている。山本さんは月1回を目安に、東京から訪ねる生活が続く。

 ホームに入って何より良かったのは母の表情が明るくなったこと。一人暮らしをしていた頃は、表情にかげりが見える時がありましたから。

 部屋を出たところにあるソファに友達と座って、「お菓子屋さんが落花生を売りに来るのは何曜日だったかねえ」なんて、おしゃべりを延々と繰り返している。私はその会話を隣で聞いている。ゆったりとした時間に癒やされます。

 母の認知症、自分や妻の病気――。試練が重なりましたが、「俺は悪い生き方なんかしてこなかった。そういう年回りだったんだ」。今はそう思えます。

 母は元気です。訪ねると、「譲二、よく来たね」と言って抱きついてくる。幸せを感じる瞬間です。(聞き手・赤池泰斗)

 やまもと・じょうじ 1950年、山口県生まれ。高校卒業後に上京、74年に「夜霧のあなた」(芸名・伊達春樹)で歌手デビュー。80年発売の「みちのくひとり旅」は100万枚の大ヒットとなる。俳優としても活躍。昨年11月、シングル「蓬莱橋」を発売した。

 ◎取材を終えて ハルヱさんの介護や家族の病気について悩んでいた時、山本さんは東日本大震災の被災地を思い浮かべたという。「家族を失った人の話を直接聞きました。被災地での苦労を考えたら、もっと俺たちは頑張らないといけない。頑張らないと申し訳ない」。日本人の「心」や「情」を数多く歌ってきた山本さんらしい言葉だと感じた。「頑張る」と「申し訳ない」。壁にぶつかった時に思い出してみたい。

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