文字サイズ:
  • 標準
  • 拡大

これからの人生

yomiDr.記事アーカイブ

[市毛良枝さん]登山で確信 俳優の道

  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • チェック
「小さな山でも、ちょっとした極限状態が体験できる。そんな時、意外と体力があったとか、本当の自分がわかるんです」(埼玉県長瀞町で)=小倉和徳撮影

 「登山に出会っていなかったら、俳優という職業に行き詰まっていたかもしれません」

 今年3月。山に囲まれた群馬県川場村で、村民に向けた講演のなかで山への思いを吐露した。

 登山に出会ったのは40歳の時。国内の3000メートル級の山に飽きたらず、ヒマラヤやキリマンジャロにも挑戦した。

 芸能の世界に身を置きながら、「居心地の悪さ」を感じていた。そんな時、山という別世界に出会い、「私はこのままでいい」と思えるようになったという。

 静岡県の開業医の家庭に育った。体が弱く、運動は嫌い。いじめられたこともあった。東京で通った中高一貫の女子校では、宝塚歌劇団にあこがれて演劇部に所属。「宝塚ファンが集う場のようなものでしたけど」、演劇の魅力を知った。

 卒業後、学生運動で荒れていた大学を敬遠し、文学座付属研究所へ。しかし、演劇に熱い思いを持つ仲間について行けず、1年でやめることに。誘われてテレビドラマの世界に入った。

 ところが、ここでも俳優の仕事にのめり込めず、撮影現場では何回も怒鳴(どな)られた。体力も演技力もなく、引け目を感じ、俳優に向いているのか悩み続けた。「いつやめようかとずっと考えていた。でも、もう少しましにならなければ、やめるにやめられないと思っていた」と言う。

 そんな悩みとは裏腹に、世間では人気が上昇。1970年代後半にテレビドラマで嫁役を演じ、「理想の花嫁」と呼ばれた。それでも、ここを自分の居場所とは思えず、職業欄には「自由業」と書いていた。

 山への扉を開いてくれたのは、父親が世話になった医師だった。父の死後、久しぶりに医師を訪れると、趣味だという山登りの話になった。「私も連れて行ってください」と言うと、北アルプスの燕岳と常念岳に登ることがすぐ決まった。

 初登山はまるでドラマだった。高度が上がるにつれ変化する植生。小雨の後にカッパを脱ぐと、蒸した体にさわやかな風が流れた。頂では、雲海に映った自分の影を虹の輪が囲む「ブロッケン現象」に遭遇した。

 体力に不安があったのに、疲れた仲間の荷物を持ち、歩き方をほめられた。「初めて自分を肯定できた気持ちになった」。下山し、久々の風呂を味わううちに、次の山が待ち遠しくなった。

 以来、時間があれば山に通った。同じ山でも、同行者や季節、天候で違う感動があった。見るものすべてが楽しく、泥だらけになることが気持ちよかった。

 体力も、精神力も強くなった。山へ行くたび自然と人に元気をもらい、仕事に戻っていくことができた。

 10年ほど前から母親を介護し、山へ行く機会は減った。それでも、都会の片隅に咲くスミレなど小さな自然にも目が行くようになり、以前とは違う自分がいた。

 60歳を前に、引退を考えたこともあった。でも、「道を作ってきてくれた大先輩たちがいたから、40年も仕事をさせてもらえた」。勝新太郎さん、太地喜和子さん、三國連太郎さん――。同時代を生きた者として、仰ぎ見た俳優たちの精神を語り継ぐ役割があると思うようになった。

 俳優の仕事を続けよう。そう心から思えるようになったのも、山のお陰と感じている。(小山孝)

 いちげ・よしえ  俳優。1950年生まれ。71年、テレビドラマ「冬の華」でデビュー。環境省の環境カウンセラー、NPO法人日本トレッキング協会理事も務める。著書に「山なんて嫌いだった」。フジテレビ系ドラマ「鴨、京都へ行く。」に出演中。

  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • チェック

これからの人生の一覧を見る

最新記事