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夫婦げんか考
「夫婦げんか」の元祖は、日本神話に登場するイザナギ(男神)とイザナミ(女神)といわれています。夫婦第一号となった二人は、「わが身は、成り成りて成り合はざる処一処あり」「わが身は、成り成りて成り余れる処一処あり」の名台詞(ぜりふ)を交わし合った後、つぎつぎと国を生み、ついで土、石、水、山を生みだしました。
ところが、火の神を生んだときのやけどが原因で、妻のイザナミは死んでしまいます。悲嘆にくれる夫のイザナギは、妻を慕って黄泉(よみ)の国を訪れます。すでに死の国の住人となった妻は、夫の情にほだされて、こう告げました。
「もう一度帰れるように、黄泉の国の神とかけあってきます。その間、決して後ろを見ないと約束してください」。「よしよし」とうなずいた夫は、しかし待ちきれなくて振り向いてしまいます。 すると、どうでしょう。愛する妻のからだには蛆(うじ)がいっぱい。想像だにしなかった妻の醜い姿にびっくり仰天した夫は、一目散に逃げ出します。
おさまらないのは妻のイザナミです。約束を破られたくやしさ、醜い姿を見られてしまった恥ずかしさに身をふるわせ、猛然と反撃を開始します。
さて、この夫婦げんかの軍配はどちらに? 残念ながら紙面の都合で「古事記」にゆずるしかありません。ともあれ、日本神話がいきいきと描きあげた最初の夫婦像が「はじめに夫婦げんかありき」であるのは、古代社会の対等な男女の関係性を暗示していてはなはだ愉快です。
こうした大胆素朴な夫婦げんかは、やがて一夫多妻制のなかで姿を消し、替って浮上してくるのが嫉妬の情念です。嫉妬する側は、もちろん女。
「源氏物語」や「かげろふ日記」には、そうした女達のため息が塗りこめられています。
ところで、現代の夫婦はどんな夫婦げんかを展開しているのでしょう。木造家屋が軒をつらねていた頃は、向こう三軒両隣りをつつぬけにするような夫婦げんかも珍しいことではありませんでした。まわりもまた、「夫婦げんかは犬も喰わない」と、さして気にもとめないで聞き流したものです。
そして今、コンクリートのマンションが林立し、そこに住んでいるのは企業戦士の夫と銃後の妻。二人の間にはどのような葛藤が潜んでいるのか、コンクリートの壁に遮られて、物音一つ聞こえてきません。まさしく、「隣は何をする人ぞ」です。夫婦が向き合ってくらせばこそ、夫婦げんかも起きようというもの。
心もからだもすれちがってばありの夫婦には、夫婦げんかも寄りつかないのでしょうか……。
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胸が痛みます。
病気、いのち、老いていくこと…
心とからだがまったく同じように老いていけばよいけれど、
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ねむの木・るるるさん
死んだ人をいつまで恋い焦がれても、灰を抱くことも出来ません。
>生きている人間を、できれば、身も心も十分に愛されなかった女性を深く愛してあげて
身近に夫を亡くした人がいます。いまは憔悴しきっていて思うのは亡き人のことのみ。半世紀以上一緒に暮らした夫婦、簡単にはスイッチ切り替えは無理でしょう。
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こちらのブログで、女性の性欲、灰になるまでというお話を読みました。わたしは(いつまで挑戦できるのか)楽しみにしていますが、四朗さん宅ではあきらめたということでしょうか…(あきらめないで欲しいです)。
それから、これはわたしが思ったことですが、イザナギとイザナミのお話は、生きている人間は、生きている人間を愛せよ、ということではないかなと。
わたしがイザナミだったら、いついつまでも愛してくれるのはうれしいけれど、死んでしまった以上は、わたしのことはあきらめて、生きている人間を、できれば、身も心も十分に愛されなかった女性を深く愛してあげて。そしてあなたももっとしあわせになってねと言いたい。
煩悩を棚に上げて書いてみました(笑)
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