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[ピーコさん]癒やしの歌 人のため

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「うまく歌おうなんて思わない。大事にしているのは歌詞。歌の意味を分かってほしいから」(東京都世田谷区の成城ホールで)=鈴木毅彦撮影

 ♪愛こそ燃える火よ

 東京都内で開かれたコンサート。シャンソンの名曲「愛の讃歌(さんか)」を、一つ一つの歌詞をかみしめるよう情感たっぷりに歌い上げると、満席の約300人の観客から大きな拍手が起きた。

 「シャンソンには様々な人生がうたわれている。悩みを抱えたお客さんに、『あなただけの悩みじゃない。昔の人たちも乗り越えてきたよ』と伝えたい」

 定期的に開くコンサートでは、客席で涙を流す人や、「下手ですね。でも、心に染みました」と感想をつづる人もいる。24年前、がんで左目を失った。転移の恐れを抱えるなか、歌い始めたのがシャンソンだ。「自分の歌に癒やされる人がいるのなら、人の役に立てていると思える」

 左目に異変を感じたのは1989年。痛みはなかったが、病院で精密検査を受けると、「メラノーマ(悪性黒色腫)」と診断された。「30万人に1人の珍しい腫瘍。目を摘出しないと、命にかかわるかもしれない」と医師に告げられ、摘出手術を受けた。

 当時44歳。芸能界デビューして14年がたっていた。テレビでは、ファッションの辛口な批評が人気だった。収入が増えるにつれ、「おいしい物が食べたい」「宝石がほしい」などと欲望ばかりが膨らんだ。テレビの収録現場で待ち時間が長いと、「何でこんなに待たなきゃいけないの」とどなり散らし、タクシー運転手の対応が気に入らないと現金を投げつけた。

 それが左目を失い、自分の満足だけを求めてきた人生が愚かに思えてきた。

 義眼を入れた。手術後は傷口が変形するため、1個30万円ほどする義眼を、1年間に20~30個変える必要があった。親交の深い永六輔さんらが1口1万円の寄付を呼びかけてくれ、300万円が集まった。「私は一人で生きているんじゃないんだ」と気が付いた。

 手術から5年間は転移の恐れがあるため、半年に1回、全身の検査を受けなければならない。憂鬱(ゆううつ)になり、元気のない姿を見て、永さんが勧めてくれたのが歌を習うことだった。

 ファッションを学んでいた若い頃から、よく聴いていたシャンソン。ピアノの先生の指導を受け、人前でも歌い始めた。衣装を担当したシャンソン歌手の石井好子さんに誘われてショーに出演したのをきっかけに、本格的にステージに立つようになった。

 障害者や中途失聴者などの講演会に招かれ、目を失った体験や人生観を語ることもある。「自分のことよりも、誰かの役に立てる仕事を優先する」ことを貫く。

 ファッションの見方も変わった。背が高く見える着こなしや、やせて見える服装などを提案していたが、人は外見を飾るだけでは美しくなれないと考えるようになった。講演では、「自分のため、という欲を捨てれば、きれいになれるわよ」とアドバイスする。

 手術を受けた病院には当時、同じ病気の患者がいたが、2年後に亡くなった。

 「生きている私には自分の知らない、何か役目があるはず。人のためになるような自分の役割を探して生きていきたい」(野口博文)

 ピーコ ファッション評論家。1945年、横浜市生まれ。高校卒業後、アパレル会社などに勤務。文化服装学院を経て衣装デザイナーに。75年、双子の弟のおすぎさんと「おすぎとピーコ」としてラジオでデビュー。著書に「片目を失って見えてきたもの」など。

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