医療部発
医療・健康・介護のコラム
マインドフルネス・ワークショップ体験記(3)
座る瞑想。「あいつ」との終わらない闘い
さて、3日間のワークショップでいちばん時間を割いたのは、様々な「瞑想」です。次の4種類を行いました。
1・静坐瞑想(坐瞑想) |
1日目はレーズンエクササイズの後、静坐瞑想と歩行瞑想を少し。
2日目は静坐瞑想と歩行瞑想を繰り返し、ヨーガ瞑想を1回。
3日目も静坐瞑想と歩行瞑想を繰り返し、ボディースキャンを1回。こんな内容でした。
まず静坐瞑想の体験から紹介しましょう。
文字通り、静かに座って行う瞑想です。
座り方は、特に指定されません。
両足を交差して右足を左ももに、左足を右ももに乗せる「結跏趺坐(けっかふざ)」でも、片足だけを乗せる「半跏趺坐(はんかふざ)」でも、あぐらでも、正座でもかまいません。
ただ、カバットジン博士からは「自分が最も威厳を感じられる(示せる)ような座り方で」と指示されました。すると、だれもが自然に、背筋をシャンと伸ばした姿勢になります。
1回の静坐瞑想の時間はまちまち。測っていないので分かりませんが、大体20分から40分の間だったのではないかと思います。
目はつぶっても、開けてもいい。カバットジン博士の説明があったかどうか忘れましたが、呼吸は原則、鼻で吸って鼻で吐きます。よく、「吐く息を吸う息よりも長めにすると心が静まる」と言われますが、この瞑想では、特に意識して吐く息を長くする必要はありません。自然な呼吸に意識をしっかり向け、注意を集中します。
では、呼吸のどこに意識を向ければいいのでしょうか。これについても、たしか具体的な指示はなかったと思います。
マインドフルネス・ストレス低減法のベースになっている初期仏教の瞑想法には、様々な「流派」があります。瞑想の際、鼻の穴周辺の呼気・吸気の動きに意識を集中する流派もあれば、呼吸に伴っておなかが膨らんだり縮んだりする動きに意識を集中する流派もあります。その際、心の中で「吸う、吐く」「膨らむ、縮む」などと言葉にする(これを「ラベリング」と呼びます)流派もあります。
私はとりあえず、鼻の入り口から鼻腔(びくう)、のどのあたりに意識を持っていきました。空気の流れを感じやすいと考えたからです。ラベリングはしませんでした。
吸う→空気(息)が鼻の穴から入って鼻腔を通り、のどへ。
吐く→空気(息)がのどから鼻腔を通って、鼻の穴から外へ。
吸う……。吐く……。吸う……。吐く……。
しばらく続けると、いつの間にか雑念が湧いてきます。
「参加者は何人ぐらい来てるのかな…。100人以上は確実にいるな。後で実行委員に聞いてみよう…」
「あ、雑念。ダメだ」
吐く……。吸う……。吐く……。吸う……。
「家族をほったらかして3日間もこのワークショップに参加させてもらってるのだから、真剣にやらないと…」
「そういえば、妻はワンちゃんの散歩にはちゃんと行ってくれたのかな…」
「…あ、まただ。ダメダメ。呼吸に集中しよう」
集中と雑念。この繰り返しです。
ただ、雑念が湧くこと自体は、「ダメ」じゃないんですよね。それが普通です。雑念に気づいたら手放し、とらわれずに呼吸に意識を戻すことが大切なのです。とにかく、すべてにおいて「今ここ」の自分に気づく訓練をするのが、この瞑想です。
2日目の静坐瞑想では、1日目より詳細に観察することができました。
右の鼻の穴よりも左の鼻の穴の方が息がしやすいこと。やや右が詰まっている感じ。
鼻の穴の下部(トンネルに例えると地面側)より上部(トンネルの天井側)の方が感覚が鋭いこと。つまり、空気の流れを感じやすい。
そして、吸う息より、吐く息の方が感じにくい(吐く息は体温に近いから?)ことに気づきました。
3日目には、不思議な感覚にとらわれました。静坐瞑想で私は、目をつぶることもあれば、日本の坐禅のように軽く目を開ける(半眼)こともあり、その時は半眼で座っていたのです。
しばらく続けていると、ある瞬間から、床だったかヨガマットだったか忘れましたが(忘れてばかりでスミマセン)、1メートルほど先にある模様が、3D映像のように目前に迫って見えたのです。距離は、目から15センチほど先でしょうか。
「あれれ、なんだ? これは…」。心の中で思いました。かすかな驚きを覚えながらも、そのまま呼吸を続けましたが、映像は3Dのまま。瞑想の終わりを告げる磬子(きんす。お鉢のような形をした卓上の鐘)の音がするまで、それは続きました。
まあ、この現象に深い意味があるとは思っていません。瞑想中に、光が見えたり仏様の姿が見えたりといった不思議な現象が起きることはよくあることだそうです。この体験を「悟った!」などと勘違いする修行者もいるようですが、瞑想の段階が進んだわけではなく、何の関係もないとか。
ただ、うまく表現できませんが、私の視界が3D状態になった時は、「自然な集中状態」にあったように思います。雑念の頻度が減り、〈呼吸する自分〉と〈呼吸を意識している自分〉が一つになったような感じ――とでも言うのでしょうか。そして終始、平和で落ち着いた気分と、どこかしら心地よい感覚にとらわれていました。
しかし、こうした状態が訪れたのは、3日目のわずか20分ほど。それ以外の瞑想タイムでは、私は何度も「あいつ」に悩まされ続けたのです。
あいつ……。
そう、瞑想や坐禅をする人が必ず悩まされることがある「睡魔」です。
呼吸に意識を向けてしばらくすると、睡魔が何度か押し寄せてきました。ある瞑想関係の本で、「その眠気にも意識を向けて、気づきの光を当てればいい」というようなことが書かれていましたが、とんでもない。意識を向けるどころか、いつの間にか意識が薄れて、ウトウトしているのですから。
「あ、今、ウトウトしてた。せっかくの貴重な時間なのに、なんてもったいない」。悔しい気持ちがこみ上げてきます。そして、その感情に意識を集中させ、「いま、悔しいと思っている」と気づくのですが、意識のない「空白の時間」があった事実は変えられません。
瞑想中に眠らないようにするいい方法は、何かないのでしょうか。
どなたか教えてください!
(次号につづく)

山口博弥(やまぐち・ひろや)
1997年から医療情報部。胃がん、小児医療制度、高齢者の健康、心のケアなどを取材してきた。自称・武道家。
【関連記事】
眠らない方法
石川尚寛
簡単かつ有効な方法は、両手に仏具を持って瞑想するといいです。ネパールの仏画にも描かれているように、いろいろな菩薩や如来は、手に仏具をもって修行し...
簡単かつ有効な方法は、両手に仏具を持って瞑想するといいです。ネパールの仏画にも描かれているように、いろいろな菩薩や如来は、手に仏具をもって修行しています。ガンターという鐘や、ヴァジラという金剛杵、水晶玉など。仏具の重さや、金属の温度、触感が眠り込むスレスレのところで止めてくれる効果があり、また仏具そのものが出すパワーを感じると、意識が覚醒して瞑想が進むことがあります。私は、水晶玉を持って瞑想したときに、水晶のバイブレーションと一体化した感じで歓喜しながら瞑想を続けたことがあります。仏具と瞑想は何か意味があるのだと思いますが、眠りにくいことは確かです。それでも眠った時は、仏具が床に落ちて、その響きで目が覚めたりもします。
もうひとつは、修行中に睡眠欲を貪ることは、どういう悪業を積むかを認識すると、いいと思います。
つづきを読む
違反報告
瞑想中に眠らないようにするいい方法 私見
藤井英雄
「瞑想中に眠らないようにするいい方法」について私の場合、意識のフォーカスがみぞおちのチャクラに落ちると雑念と眠気におそわれ、アジーナに戻すとマイ...
「瞑想中に眠らないようにするいい方法」について
私の場合、意識のフォーカスがみぞおちのチャクラに落ちると雑念と眠気におそわれ、アジーナに戻すとマインドフルに戻ります。それでだめならアジーナからさらに後頭部、後頭部のさらにちょっと上の空間に意識を集中してそこから自分を客観的に見ているイメージをつくってそれでもだめなら瞑想中に寝る癖がつかないように瞑想をやめて動くか寝るかします。
つづきを読む
違反報告
睡眠不足と止まない意識
木戸愛楽
あとできいてみようと、自分が忘れるかもしれないと自分を信じてない。家族がどうしているかと家族を信じてない。奥さんがワンちゃんを散歩にと信じてない...
あとできいてみようと、自分が忘れるかもしれないと自分を信じてない。
家族がどうしているかと家族を信じてない。
奥さんがワンちゃんを散歩にと信じてない。
すべて信じちゃえばいいんでしょうかね。
次にどうなるかと「次」に疑問をもつとそうですね。
こうなって、こうなるから、ああなってと考えは続きます。
考えると脳は発熱するそうです。
頭を冷やせと言う言葉があるほどですけど、実際は発汗などで全身をラジエーターにしているそうです。
信じちゃえ「これを一つ」としてしまえば、脳で考える事ってないですよね。
気球で世界一周でしたか、そのパイロットが不眠状態で脳が自分という意識を体を守る為に機能停止する機能だそうです。
そうなれば座禅で睡魔がくるという事は考え過ぎているんじゃないでしょうか?
意識のしすぎと慢性的睡眠不足。
休みの日も運動したり出かけたりなどが原因だそうです。休んでいるつもりで実は活発に運動して考えてという悪循環。
ディスカバリーチャンネル 人体 ~映像で見る解体新書~ を見ると、なんとなくそう思います。
つづきを読む
違反報告