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[中高生の部・優秀賞] 本当の主治医って

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図司 瑛海(ずし えいみ) 東京・中学1年生

 私の弟は八才になりました。おにぎりと新幹線の好きな、やんちゃな二年生です。週末には水泳やサッカー教室にも通っています。

 こんな弟ですが、生まれてすぐ保育器に入り、生後一ヶ月をGICUで過ごしました。生後半年には心臓の穴をふさぐ大手術も受け、病院通いの毎日だったそうです。

 当時まだ入学前だった私は、あまりその頃の大変さは覚えていません。ただ、病院内を網の目のように張りめぐらされた書類運搬装置が、モノレールのように見え、楽しみに過ごしていました。GICU待合室の消毒液と甘い粉ミルクの混じったような独特な匂いは今もよみがえります。検査や飲み薬の処方のため、私も連れだって病院に足を運ぶ機会が多くありました。

 私の記憶に一番はっきり残っているのは看護師Iさんの笑顔です。GICUでの一ヶ月間は、窓ガラス越しにしか面会できない私に、弟のミルクを飲む姿や沐浴(もくよく)する姿を、見えやすいように配慮してくれました。仕事の後には、廊下で一人待つ私のために、待合室の絵本やぬいぐるみを持ってきてくれました。

 「今日も弟さん元気で良かったね。お利口に待てたね。」と話しかけてくれた日もありました。多くの看護師さん達の中で、Iさんは弟だけでなく、母や兄弟である私にも、常に笑顔で声かけをして、家族みんなを日々見護ってくれていたのです。今も年賀状で近況報告や写真を送ると、欠かさずに返信を下さり、まるで親戚の一員のように弟の成長を喜んでくれる優しい方です。Iさんは私達家族のサポーターです。

 先日ふと私が「弟の命の恩人は、0才の弟に心臓の大手術を勧め、無事成功させたK先生だね。」と何気なく言うと、母は「そうね。八才の今、こうして元気に学校に通い、サッカーやプールを楽しめるのはK先生のおかげね。あの頃はこんな姿を想像できなかったわ。」としみじみ言いました。

 「でも……私にとっての恩人は小児科のH先生かもしれないな。」

 私にとって意外な答えに少し驚きました。なぜならK先生は生後すぐから三才までは確かに弟の主治医でしたが、今では異動で別の病院にいて、最近はもう会えない先生だからです。

 そこで母に理由を聞くと、次のような言葉が返ってきました。生まれてすぐ弟には染色体異常の疑いがあることがわかり、検査をしたこと。結果が出るまでの不安な日々を細かくフォローし、必要な処置や手術の準備を一つ一つ進めてくれたこと。検査の結果、障がいの告知の時、「ゆっくりですが何でもできるようになります。」と言ってくれたこと。母が、歩けるか、話せるのかなど矢つぎばやに不安を口にした時も、普段と変わらない穏やかな口調で多くの疑問に誠実に答えてくれたそうです。その言葉に後押しされ、「何とかなる。いつかはできるはず。」と勇気をもらえたそうです。もし違う言い方や、「できない場合も…」など、可能性を否定されたなら、不安なまま我が子に今日まで接してきたかもしれない。だからこそ、あの日のH先生の誠実な励ましが必要だったと。母の言葉と、今の弟の姿を重ね合わせて、私も深くうなずきました。

 今まで医師とは、病気を治し、手術を成功させる人こそ名医だ、と考えていた私ですが、今は少し違います。患者の病気だけでなく、人の心に寄り添うことが、回復や成長には欠かせないものだからです。院内には医師以外にも看護師Iさんのような、より近くで人に向き合う存在が大きな役目を果たしていることも知りました。

 私達家族には、弟を取り巻く温かい手が、今も多く差し伸べられていることに、家族一同、心より感謝しています。

 私は将来どんな職業についても、職務上の責任を果たすだけでなく、人と関わり、思いやる心を大切にしてゆきます。

 それは、今までに受けた優しさを忘れずに、多くの人々に同じような気持ちで希望や勇気を持ってもらいたいからです。

第31回「心に残る医療」体験記コンクールには、全国から医療や介護にまつわる体験や思い出をつづった作文が寄せられました。入賞・入選した19作品を紹介します。

主催:日本医師会、読売新聞社
後援:厚生労働省
協賛:アフラック(アメリカンファミリー生命保険会社)

審査委員:落合恵子(作家)、竹下景子(俳優)、ねじめ正一(作家・詩人)、原徳壽(厚生労働省医政局長)、外池徹(アフラック社長)、石川広己(日本医師会常任理事)、南砂(読売新聞東京本社編集局次長兼医療情報部長)<敬称略>

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