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ケアノート

医療・健康・介護のコラム

[新藤風さん]監督・祖父の情熱 間近に

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本音で介護 信じ合う

「ケンカもしたけれど、いつも冗談を交えた笑いがありました」(東京都港区で)=清水健司撮影

 昨年5月に100歳で亡くなった映画監督の新藤兼人さんは、その前年まで映画制作に打ち込み、情熱が衰えることはありませんでした。晩年の6年間を同居した孫の(かぜ)さん(36)は、公私にわたり監督を支え、最期を看取(みと)りました。時にケンカもしましたが、「何でも言い合える信頼関係があった」といいます。

冗談好き

 祖父は94歳の時に体調を崩し2か月近く入院しました。以前から、東京・赤坂の祖父のマンションにはよく泊まりに行っていたので、私は家族の中では「おじいちゃん係」。病院の祖父に付き添い、退院後も同居することに。

 祖父は家族の中心で、全員が大事に思っていました。当時、母は体調が悪く、父(新藤次郎氏、近代映画協会社長)はプロデューサーとして、祖父の映画制作を支えていました。それなら身近な支えは私がと考え、両親への孝行のつもりで、祖父との生活を始めたのです。

 新藤監督は22歳で映画界に入る。「愛妻物語」(1951年)で監督デビューし、亡くなる前年に公開された「一枚のハガキ」(2011年)まで49本の映画を撮影。妻で女優の乙羽信子さんの遺作となった「午後の遺言状」(1995年)など、映画史に残る傑作が多い。映画以外も含めると、
1000本近くの脚本を書いた。

 祖父は、人が驚くような過激な言い回しやブラックジョークを好みました。「あと2~3年の命だから」とか、「君、ボクが早く死ねばいいと思っているでしょ」とか。私も「全然死ぬ気配ないねー」「あと1、2年と言ってたのにもう6年。どうしてくれる、私の恋も仕事も」なんてジョークで返す。母には「漫才みたい」と言われました。

 「石内尋常高等小学校 花は散れども」(2008年)の制作から、祖父は車いすで現場に出るようになり、私も「監督健康管理」という役割で参加しました。この現場で、祖父が命がけで映画に情熱を注ぐ姿を間近に見ました。

 微熱が続くので「病院へ行こう」と言うと、「そのまま入院しろって言われたらどうする! 撮影をやめるのか! これで最後なんだぞ!」と。2人で泣いてどなり合いました。もう最後まで一緒にいようと腹をくくりました。

ソファで寝起き

 次第に体力が衰える新藤監督。孫とはいえ、100歳近い祖父との生活には苦労が多かった。

 私は本当は寝起きが悪いのですが、小さな物音でも目が覚めるようになりました。祖父がトイレに起きて転んだり、動けなくなったりすることがあったのです。晩年は2時間おきにトイレに起きる祖父を手伝うため、部屋の入り口のソファで寝ていました。

 睡眠や食事を自分のペースで取れず、泣きながら「助けて」と家族に電話したこともありました。そんな時、助けてくれたのはご近所の人やヘルパーさん。若い娘がおじいちゃんの面倒を見ているのを自分の娘のように気に掛け、話を聞いてくれました。それで随分と心が楽になりました。

 祖父は歯磨きや洗顔、お風呂を面倒がりました。電動歯ブラシを口に入れたり、風呂にゆっくり入れようとしたりすると、またまた冗談めかして「老人虐待だ」「殺す気か」などと言う。こちらも「死にゃしないよ」って言い返して。

 父は「もっと優しくできないのか」と言うこともありましたが、信頼し合うためには、ちゃんと言わないとダメだと思っていました。優しく接して何でもやってあげれば早く済むし、感謝されて祖父との関係も楽だったかも。でもすぐに衰えてしまい、「最後まで仕事をしたい」という思いは遂げられなかったでしょう。

一人の看取り

 新藤監督は、数年前から「自宅で死にたい」と口にするようになっていた。寝たきりの状態になったのは昨年春。4月に100歳の誕生日を迎えたが徐々に衰弱し、約1か月後、亡くなった。

 息を引き取るまでの1か月間、祖父は体調が良くなったかと思えば2日間眠り続ける、といった不安定な状態でした。「台本を取ってくれ」「撮影再開しよう」など、撮影現場にいるような寝言を繰り返していました。

 亡くなる前夜、深夜に目を覚まし、「ふーちゃん」と私を呼んで、ニコニコと何か話したそうにしていましたが、午前3時ごろ、呼吸が苦しそうに。朝方、往診の医師に家族を呼ぶように言われたものの、間に合いませんでした。結局一人で看取りました。

 今も祖父が隣で寝ているような気がして、夜中に起きることがあります。冗談も交えて言い合いばかりしてきましたが、家族として人として、映画人として、生と死を間近に見せてもらった。宝をいただいたと思っています。(聞き手・月野美帆子)

 しんどう・かぜ 映画監督。1976年、神奈川県生まれ。日本映画学校(現・日本映画大学)卒業。99年に「おじいちゃん」を制作。2000年の「LOVE/JUICE」で、ベルリン国際映画祭新人賞を受賞。05年「転がれ! たま子」を発表。

 ◎取材を終えて 30代前半の若さで介護を体験した風さん。「自分の時間ができたら、あれもこれもやろうと思っていた」のに、しばらくは「家でじっとしたまま時間が過ぎた」という。壮絶な体験だったからに違いない。それでも「今年はマンションを出て、自分の人生を生きることを始める」と話していた。「宝」だという6年間が、これからにつながるのではないだろうか。作品にも、人生にも。

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