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ケアノート

コラム

[水村美苗さん]奔放な母 放っておけず

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「解放」願う自分との葛藤

「母ほどではなくても『自分らしさ』を強く求める高齢者はこれから増えていくのでは。その分、子どもは大変かもしれませんね」(東京都内で)

 小説家の水村美苗さんは、2008年7月、87歳の母・節子さんを病院で看取(みと)りました。「わがままな母から解放されたい」「かわいそうな母を助けてあげたい」。相反する思いの中で過ごした介護生活だったといいます。

複雑な思い

 母の面倒をみるようになったのは1995年、母が私の自宅近くに越してきたばかりの頃。暴走してきた自転車にはねられ大腿(だいたい)骨を骨折してしまったのです。外出するのにつえが必要になりました。入院していた父が死ぬ少し前のことでした。

 一人暮らしの母は私を放っておいてはくれませんでした。毎晩8時の電話を欠かさず、デパートへ行きたい、観劇したいと、何かにつけて私を呼び出します。

 私は、母に対し長らく複雑な思いを抱いてきました。最大の原因は、病気で入院中の父を顧みずに、ほかの男性との「道ならぬ関係」を優先していたことです。ハンドバッグ一つで始終海外へ出かけてしまう奔放な生活を送っていました。

 そして娘の世話にはならないと話していたのに、事故に遭い、その関係が壊れると、結局は私を頼るようになったのです。

 面倒を見る必然性なんてない。そんなわだかまりを抱えたまま介護はスタートしました。

 2006年12月、節子さんは外出先で転倒し、再び大腿骨を折ってしまう。車いすの生活となり、自宅近くの老人ホームに入居した。

 ホームに入るのは自分で言い出したことでした。しかし、母の要求が衰えることはありません。部屋は常に花で飾られ、モデルルームのようにきれいでした。映画が好きでDVDを借りるのですが、じきに理解できなくなり「つまらない」と途中で見るのをやめては、別の映画を求めてくる。何かを欲しても、何も心を満たしてくれるものがなくなったのです。

 ホームに向かう足取りは重かった。せっかくきれいにした部屋の中に、自分のことしか考えない母、頭がおかしくなってしまった母がいる。そう思うと本当に憂鬱(ゆううつ)でした。

 仕事のプレッシャーも重くなりました。原稿の締め切りは容赦なくやってきますし、何しろ「書く」ということ自体、非常に消耗する作業です。英訳を見直す仕事も抱えていました。体調を崩し睡眠薬の量が増えるという悪循環です。母に振り回される生活はいつまで続くのだろうか。家に帰ると、日本人女性の平均余命を調べては、暗澹(あんたん)としました。

 しかし、一方で母の要求にできる限り応えようとしている自分もいるのです。あれほど奔放に人生を求め続けた母が、今は自分で動くこともままならない。早く死んでほしいと願っていながら、かわいそうだと思う。この感情は親子だからとしか言いようがないのかもしれません。

 節子さんが高熱を出しホーム近くの病院に運ばれたのは08年の春。診断は誤嚥(ごえん)性肺炎だった。

意思を尊重

 夜、連絡を受けて病院に行くと、酸素マスクをつけてベッドに横たわっていました。意識はあり、一時は食べ物をのみ込む訓練を開始するまで回復しました。しかし肺炎は完治しないまま内臓の出血などもあって、徐々に衰弱していきました。

 母は60代で日本尊厳死協会に入会していました。さらに、体に管を通す経鼻経管栄養、胃ろうなどの処置はしてほしくないと、かねて話していました。

 医師は胃ろうを提案してきました。母の意思は伝えたのに、それを尊重する選択肢は示してくれませんでした。今の母に判断力は残されていないのだから、母から信任された責任をまっとうするのは私。病院を変える決断をしました。正直に言うと、その時は解放された気分でした。

 転院先で、母は少しずつ死に近づいていきました。転院して2週間後、私、姉、夫に見守られながら息を引き取りました。

 感慨らしいものはありませんでした。とにかく、母が望むような最期を迎えられてよかった、責任は果たしたという気持ちでした。

 水村さんの体験は、読売新聞朝刊で連載された「母の遺産 新聞小説」の下敷きになっている。そこには「ママ、いったいいつになったら死んでくれるの?」という主人公の言葉が描かれる。

 「親に死んでほしい」という感情は、その人自身を苦しませるかもしれない。でも私は、そんな風に思っても構わないのですよ、と伝えたい。

 老親の面倒をみる、介護をするというのは、決してバラ色の世界ではない。後ろ向きの気持ちを持ったからといって、さらに自分を追い込むことはないと思うのです。

 母の介護や看取りを通じて、自分の死に方についても考えるようになりました。私には子どもがいませんから、私が母にしたようなことをしてくれる人はいません。

 自分の人生をどんな風に閉じるのか。今から考えても早すぎることはないと思っています。(聞き手・赤池泰斗)

 みずむら・みなえ 小説家。1951年、東京都生まれ。エール大学大学院で仏文学を専攻。91年にデビュー作「続明暗」で芸術選奨新人賞を受賞。95年、「私小説 from left to right」で野間文芸新人賞。2003年、「本格小説」で読売文学賞。

 ◎取材を終えて 水村さんは自らの介護体験を「もう二度とゴメン」と振り返りつつ、「ある種の不幸とか厄介ごとは、大人である限り、いくつか抱えながら進んでいくしかない」と話す。「母の遺産 新聞小説」には母・節子さんの実際の言葉も生かされているという。「小説家の想像を超える言葉をたくさん与えられました。その意味で『不幸』はマイナスばかりではなかった」。介護のさなかにある人へのヒントがあるように思えた。

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