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映画監督・岩淵弘樹さんインタビュー(1)被災地のクリスマスを撮影

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 東日本大震災後、被災地・仙台市の人々が初めて迎えたクリスマスを映したドキュメンタリー映画「サンタクロースをつかまえて」が東京都内で公開中だ。仙台出身の監督、岩淵弘樹さん(29)に作品に込めた思いを聞いた。(岩永直子)

岩淵弘樹(いわぶち・ひろき)
 1983年仙台市生まれ。埼玉県の工場で派遣社員として働いた自身の生活を記録した1作目のドキュメンタリー映画「遭難フリーター」は複数の国際映画祭で招待作品になった。現在は東京都内の老人ホームで正社員の介護職員として働く。本作「サンタクロースをつかまえて」は12月28日まで東京・渋谷の「ユーロスペース」で、12月22日~28日まで仙台市の仙台フォーラムで公開される。

映画について語る岩淵弘樹監督

 ――仙台のご両親や友人ら身近な人を中心に映していらっしゃいますね。被災状況はどうだったのですか?

 「実家は山側なので、津波の被害はありませんでした。母が勤めているのは仙台市蒲生地区の港に近い工場で、津波が押し寄せました。車は流されましたが、建物の上の方に逃げて助かりました。母は津波にものが流されていく様子を見ていたそうですが、つらくてすべては見られなかったと言っていました。親戚も無事でしたが、友人の1歳ぐらいの娘さんは亡くなりました。他人事ではないと感じました」

 ――震災後、最初に帰省したのは3月20日だったそうですね。カメラはそこから回し始めたのですか?

 「3月13日ぐらいから東京でカメラは回し始めていました。ずっと、バンドをやっている友人のライブを撮影しているのですが、3月11日直後も予定していたライブがなくなったり、ライブハウスは電気をたくさん使うので電気が必要のないアコースティックのライブをやっていたり、普段とは違う活動をしている友人たちを撮っていました」

 ――最初は東京で撮っていたのですね。

 「例えば、新宿駅前で(マスコミの)カメラがたくさん撮影していたり、駅の券売機が販売中止になったり、普段はこうこうとついている街の灯りが消えていたりだとか。どんなものを撮ろうと狙ったわけではなく、ただ目の前で起きていることをたんたんと撮っている感じでしたね」

 ――その流れで、映画の中にも出てくる震災直後の仙台も撮影していたのですね。

 「休みが直近で取れたのが3月20日で、新潟まで新幹線で行き、そこから高速バスで仙台入りしました。着いた直後の映像が、映画にも出てくる仙台駅前のアーケードの映像なのですが、土曜日の夜7時半ぐらいなのに、人が全然いなくて、店も閉まっていて、炊き出しが街の中で行われていて人が並んでいる。生まれ育った街なんですが、自分のいない間にこんなに大変なことになっているということがすごく悲しかったですね」

 ――それは、それまで撮っていた東京の変化とは違っていました?

 「全然違っていましたね。東京はおむつや水はどんどんなくなっていたものの、一応店は営業していましたが、仙台は店自体開くことができないし、『頭上注意』という張り紙は東京では見なかったものです。自分の身に直接降りかかってくるという意味では、東京とはまったく違いました」

 ――その時のショックが映画のベースになっているということですが。

 「僕は仙台での毎日変わらない生活や仕事に飽き飽きして、24歳の時に東京に出てきたんです。特に好きなのは、音楽とか映画とか文化的なもので、発信地は東京に集中していたので。あれだけ退屈だと思っていた街がこんなことになって、仙台という街が好きだったんだなと気付いて悲しくなったのかもしれません」

 ――今回撮っているご両親や友人達の生活について、これまではどのように見ていたのですか?

 「東京に出る直前、地元の友人と飲んだり、遊んだりしていたのですが、僕が『東京に行くよ』と言ったら、『何で?』と聞かれたんです。『こういう変わらない生活をするのはいやだ、もう飽きたよ』と言うと、友人は『俺らは変わらないから』って。それがすごく印象的な一言でした。変わらないということを堂々と言っている友達はすごいなと思ったんです。実際に、震災という、大きく色んなものが変わってしまう出来事があったのですが、その中で友人たちは、自分たちの生活のペースだったり、家族だったり、仕事だったりを変わらずに守っていた気がして。変わらない強さというのがある気がして、僕は、ああこいつらが故郷を守っていたんだなという気がすごくしました。いつでも帰れるような場所にしてくれているのは友人たちなんだと、震災の後は強く思うようになりました」

©ballooner

 ――3月に帰省した後も、クリスマスまで何度も帰って撮っていたのですか?

 「その間も、撮影もそうですが、避難所にものを届けに行ったり、その時撮影したものを編集したりだとかはしていました。5月まで撮っていた仙台や東京の映像で、震災のドキュメンタリーを作れないかなと色々こねくり回していたのですが、その時点で震災に対して僕が言えることはなかった。定期的に実家には帰っていて、東京にいる時もいつも帰りたくて仕方がなかったです。本気で東京は引き上げて、仙台に帰ろうかと思った時期もあります」

 ――市街地を中心に撮り、避難所や仮設住宅のクリスマスにあえて目を向けなかったのはなぜでしょうか。

 「光のページェントを中心に撮りたかったし、そこが僕の生まれ育った場所だからというのはあります。それに市街地から沿岸部までは車で20分ぐらいでそれほど遠くないのに、テレビで見るのは沿岸部の被災ばかりです。市街地に住んでいる人たちにはその人たちの震災の現実があるだろうにということはずっと思っていました」

 ――市街地の現実とは?

 「父は居酒屋を経営しているのですが、帰省する前は、自身で建物もつぶれてもう営業できないんじゃないかと思っていたんです。でも実際に行ってみたら、プロパンガスで都市ガスではなかったから営業はできると。車はガソリンがないから動かないのですが、片道3時間ぐらいの距離を歩いて営業していると聞いて、あれ意外と大丈夫なのかなとも思いました。より怖い部分もあったし、安心した部分もあったという感じでしょうか」

仕事再開の知らせを受けて喜ぶ岩淵監督の母・恵子さん。©ballooner

 ――会社から届いた仕事再開の知らせに泣いて喜ぶお母様の姿が印象的でした。

 「母が会社からメールを受け取る場面は3月21日なのですが、母が読んでいる新聞にちょうど『暮らし再生』と書いてありました。震災後10日たったあのころは、色んな日常生活が戻っていくタイミングだったのだろうと思います。母は58歳で、定年まで働けるのはあと数年なんです。それなのにあんなに喜ぶというのは、被災地では、働くことが、日常生活に戻る第一歩だということで、重い意味を持つのだろうと思いました。仙台で映画を見てくださった方は、母がメールを読むところを見て、『私も仕事が再開する時、すごく嬉しかったのを思い出した』と言ってくれたんですよね」(続く)

 
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