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カルテの余白に

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白阪琢磨 国立病院機構大阪医療センター エイズ先端医療研究部長(上)薬害患者救命 私の責務

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 エイズ(後天性免疫不全症候群)は、世界で最も流行が懸念されている感染症の一つだ。国立病院機構大阪医療センター(大阪市中央区)のエイズ先端医療研究部長、白阪琢磨さん(55)は、エイズ治療の初期からかかわり、多くの患者を診てきた。助けた人がいる一方で、近しい人にも病名を告げられないまま、無念の死を遂げた人を看取(みと)ったこともあった。

「エイズ治療の初期では、強い偏見の中、患者だけでなく、医師にとってもつらい時があった」と話す白阪琢磨さん(国立病院機構大阪医療センターで)=吉野拓也撮影

 

「死の病」にパニック

 <エイズの初めての症例は1981年に報告された。いったんエイズウイルス(HIV)に感染すれば治療の施しようがなく、『死の病』と恐れられた。国内では、87年に女性患者が死亡し、エイズパニックにもなった>

 エイズ治療に携わるようになったのは89年夏からです。世界初の抗HIV薬「AZT」を開発した研究グループの一人である満屋裕明さん(現熊本大教授)がいた米国立がん研究所(NCI)へ留学し、臨床的な基礎研究を始めました。

患者への強い偏見

 <94年暮れに帰国し、エイズの診療医を探していた大阪府立羽曳野病院で、内科医長に就任した>

 当時、「エイズは、みだらな性交渉が原因」という偏見が、今よりも相当強かった。米国にいたころは、近隣の住民に「エイズの研究をしている」と話すと、「素晴らしい仕事をしているな」と尊敬されました。米国政府がエイズ治療に国を挙げて取り組んでいましたから。でも、日本でエイズの研究者だというと、色眼鏡で見られました。

 <羽曳野病院で最初に診たエイズ患者は、同性愛の30歳代の男性だった>

 性交渉での感染でした。府内の別の病院からの転院で、免疫力の低下した患者によく見られるカリニ肺炎を発症していました。厳重な管理は必要ないと言いましたが、病院側は個室に収容し、室内に簡易トイレを置きました。看護師の格好も宇宙服とは言わないが、物々しく厳重でした。今では考えられないことですが、まだ、医療者の間でも手探りの状態だったんですね。

 <血友病治療のための非加熱血液製剤で、HIVに感染した薬害エイズの患者を何人も看取った>

 50歳代の男性が印象に残っています。エイズを発症し、日に日に弱っていく。網膜炎で視野の一部を失いました。それが分かったのは、患者さんが本を逆さまにして“読んでいた”からです。「自分は大丈夫だ」と示したかったのだと思います。抗HIV薬も3種類しかなく、こうした薬を二つ以上組み合わせてウイルスの増殖を抑える、今のような多剤併用療法もありませんでした。男性は周囲に「なぜ死ななくてはならないのか」と叫ぶこともありました。

薬害訴訟で認識一変

 <しかし、薬害エイズ訴訟などで、国民の認識は変わった。96年3月には東京、大阪両地裁で、原告と被告の国、製薬会社が和解した。近畿のエイズ医療拠点病院として国立大阪病院が選ばれ、97年に同病院でエイズ担当の内科医長となった>

 私を含め医師は3人で始めました。和解後、欧米で認可された治療薬が使えるようになり、多剤併用療法も出てきました。治療薬の進化で、世界の患者の死者数が減っていきました。

 しかし、今は1日、1~2錠ですむ飲み薬の量が、1日あたり十数錠もありました。結石が出来やすいため、服用する際は、毎日1・5リットルの水を取る必要があり、日常生活とは別に、余分に取る水分ですから、患者にとってはつらかったと思います。吐き気や下痢などの副作用もあり、飲み損ねると、耐性ができてしまいます。患者は大変厳しい生活を強いられました。

 ただ、「HIV感染=死」ではなくなったことも事実です。私のなかでは多剤併用療法が出る前の患者に申し訳ないという気持ちがあります。本当に次々と亡くなっていきましたから。薬害の患者を診て、私がやらなくてはという覚悟ができました。(聞き手・秦重信)

 1956年生まれ、佐賀県出身。81年、大阪大医学部卒業。89年、米国立がん研究所(NCI)へ留学し、ヒト免疫不全ウイルス(HIV)の基礎研究に従事する。94年、大阪府立羽曳野病院の内科医長となり、エイズ患者の治療を担当。97年、国立大阪病院(現国立病院機構大阪医療センター)臨床研究部ウイルス研究室長に。2009年から厚生労働省エイズ動向委員を務める。
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