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[稲川淳二さん]障害者への理解、訴える

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「五輪の年は、パラリンピックの選手をいつも応援しています。一生懸命な姿をみるといつも感動して涙が出ます」(東京都渋谷区で)=藤原健撮影

 「障害者の存在を普段の生活の中で気にかける人は少ない。街で体の不自由な人がいたら、困っていることがないか、声をかけてくれると、私はとってもうれしい」

 年10回程度、学校や自治体施設などで開く講演会で、障害者への理解や思いやりの大切さを訴える。次男には、難病「クルーゾン症候群」による知的障害がある。

 テレビ番組での印象とは違う深刻な話に戸惑う反応をする人もいるが、「よく話してくれた」と感激されることも多い。夢中で話すと2時間の予定が3時間にもなる。

 30代から40代にかけて、テレビのバラエティーやドラマに引っ張りだこで、ラジオなども含め20本以上のレギュラーを抱えていたこともある。60代の今はテレビ番組の出演をしぼり、講演やボランティア活動に力を入れる。「テレビの仕事に夢中だった自分が、次男の存在で、人生をどうやって生きていこうと考え直すことができた。人を楽しませるだけでなく、人の役に立つことをしたいと思っています」

 次男が生まれたのは39歳の時。生まれて間もなく、障害があることが分かった。先行きへの不安から、「この子がいると、家族が不幸になる。死んでしまえばいいのに」と思ったこともある。

 ちょうど、仕事が絶好調の時期。それまでは障害者について考えたこともなかった。「しかし次男が生まれてから、身が引き裂かれるような苦しさを覚えるようになった」。障害が重くても、経済的負担は軽くならないといった支援制度の問題も感じるようになった。公共施設や街中でも障害者に対する視線は冷たい。

 54歳の頃、友人の誘いで障害者についてのテレビ番組の司会を担当した。これが転機となる。車いすダンスなど障害者スポーツを紹介したり、実際に車いすに乗って街に出て移動しやすいかを試したり。

 テニスやダンスを楽しむ姿に感動したが、一般の関心が低いためスポンサーがほとんどつかず番組は終わってしまった。ショックだった。

 「もっと関心を持ってもらいたい」。翌年から、講演やボランティアの活動に力を入れるように。障害関連の制度が変わる時期には、駅頭でマイクを持ち、支援の強化を訴えた。筋ジストロフィー患者の療養施設などをボランティアで訪れて、交流した。

 怪談の名手として知られるが、人生の切なさ、人の優しさを伝えられる話を重視するようになった。例えば「蛍火」。母を病気で亡くした子どもがある夏の夜、おばと蛍を見に出かけた。1匹の蛍が子どもの耳をなでるように飛んできた。母に同じように耳をくすぐってもらっていた子どもは、「お母さんだ」と喜ぶ――。「障害者も安心して暮らす社会にするために、障害者だけでなく、まず一人一人が人への思いやりを持つことが大切だと思う」

 芸能界に定年はないが、人生の後半をどう生きるか意識するようになったという。「怪談やボランティアなど自分にしかできないことに取り組んでいきたい」(小野仁)

 いながわ・じゅんじ タレント、工業デザイナー、怪談家。1947年、東京都生まれ。バラエティーなど多数のテレビ番組に出演。怪談話を披露するライブ「稲川淳二の怪談ナイト」は今年で20年を迎え、10月までに全国41公演を予定している。

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