今こそ考えよう 高齢者の終末期医療
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オランダで考えた、日本の“よけいなお世話”

オランダは世界で最初に安楽死を合法化した国です。その国の高齢者医療をアムステルダムで見てきました。
まず、訪問看護ステーション「SARA」の担当者と一緒に1人暮らしの老人宅(86歳女性、認知症)を訪問しました。彼女の家は運河に面した3階建で、築100年以上経った典型的なアムステルダムの家です(写真1と2)。間口は4メートルもないのですが、そのかわり奥行きのある家でした。1階は亡くなった夫が営んでいた時計屋のままで、今は使っていません。埃だらけでした。2階は居間兼寝室、3階は台所と浴室で、床は傾いていました。中に入ってまず驚いたのは、ものすごく急ならせん階段でした。間口が狭い家なので、どうしても急な階段になります。手すりもなく、天井からぶら下がった太いロープを握りながら上り下りしていました(写真3)。

この家には結婚した時から住んでいて、2人の子供を育てました。しかし、慣れているとはいえ、見るからに危険で、2年前に階段から落ちて骨折し、それを契機に「SARA」の支援を受けることになりました。担当者が月曜から金曜までの毎日、1時間ほど訪問し、掃除、洗濯などをしていました。暖房は危険なので切っていました。食事は毎日1~2回運ばれていました。施設への入所を勧めましたが、本人が自宅での生活を強く希望しているため、訪問による支援を続けているとのことです。日本人の感覚だと、「こんな危ない家に認知症の高齢者を1人で住まわせておくなんて!」と思ってしまいます。
全員が「何もしない」を希望

翌日、市内の認知症専門ナーシングホーム「AMSTA」を訪問しました。4階建で、各フロア6人、計24人の認知症患者が入所していました。医師は週1回、診療に訪れます。投薬はしますが、内服薬のみで、注射や点滴は一切しません。肺炎を起こしても抗生剤の内服のみでした。
AMSTAでは、終末期にどのような医療を希望するかを、本人と家族に書面で確認していました。全員が「何もしない」を希望し,それがオランダ人の常識とのことでした。したがって、認知症が進行し、最後に口から食事もとれなくなった時は、胃ろうや点滴などは一切せず、そのまま死を迎えていました。長期寝たきりの入所者はひとりもいません。寝たきりになっても2週間ほどで亡くなるからです。転倒による骨折などで病院へ搬送されても、治療後に戻ってきて、ほぼ全員がこの施設で死を迎えていました。
日本における高齢者の終末期医療は、ひょっとしたら“よけいなお世話”かもしれない、と思いながら帰ってきました。(宮本顕二)
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高齢に成って鬱病になったら将来に対する希望は持てない。何故なら、したいことは、して来たし又新しく何かをと思っても限度が有り、将来的には,死が有り、それに伴う介護費用を考えるとお金もかけられない。今の現状で人が死ぬのに何千万も掛かる事じたいもおかしいと思います。日本も尊厳死や安楽死を考える時代になったと思います。勿論個人的な考えが尊重されるべきですけれども。
高齢で病になったら各個人の考えで死を選択出来る制度が必要です
介護に掛かる費用を子供に残してあげたいと思います。日本も尊厳死や安楽死を考える時代だと思います
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肺がんの父の最期を迎えて
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終末期、病院で死の宣告を受けると、最後は延命をするかしないか、可能な限り確認があると思います。
本人に確認して「何もしない」と選択していても、本当にその選択をしなければならないときに家族に再確認をされると、少しでも延命できる機会があるのに、しないのかと非常に悩みます。罪のように感じるのです。
日本は、患者・家族の意向が尊重されますが、もう少し専門科の意見、アドバイスが優先する仕組みで合っても良いのではないのかと思います。終末期を看取る側で経験を重ねているわけですから、患者にとっても家族にとっても一番良い選択を見つけられる立場に居るのではないでしょうか。
最後の選択をするのは、非常に精神的に負担のかかることです。
また実際に、死に直面したときに沸き起こる恐怖や苦痛は想像できないものです。
最後のわずかな時間に、その全てを専門科ではない患者や家族が、より良い選択をすることは難しいと思います。
少しずつ緩和ケア科が増え始め、本人家族も納得のいく安楽な最期を迎えられるようになればよいと願っています。
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死ぬ権利ではなく「生死選択の自由・権利」
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救急救命士はその資格を維持するため年間定められた時間数の病院実習を行います。 私がその実習で経験した患者さんのお話をします。 ICUでの実習で、...
救急救命士はその資格を維持するため年間定められた時間数の病院実習を行います。
私がその実習で経験した患者さんのお話をします。
ICUでの実習で、ALSを発症した50歳の男性と話をしました。実際には声を出すことも不可能であったため、「あいうえお板」を顔の前に持っていき、患者さんの目の動きを見ながら、おおよその文字を私が指差しそれが正だしければ患者さんは「大きく瞬き」すると言ったコミニュケーション方法でした。
この患者さんは、元警察官で「病状の進行はかなり早い」とICUスタッフから説明を受けました。
この患者さんが私に訴えた言葉は、
「人生は大切に生きろ、感謝して生きろ、あなたたちは今幸せだ、見て分かる、私は病気になるまでは大切に生き、感謝して生きてきた、でも今は苦しい、地獄のような苦しみだ、今は死が幸せだ、だけど死ぬこともできない、それが地獄。今を大切にいきろ。」
私は「あいうえお板」を持つことができなくなった。
救急現場で常に経験するが、人は五体満足であっても死を選ぶ(自殺)ことが後を絶たない。
よく「生きる義務」と言うが自ら命を絶っても当然罪には問われない。
「自殺志願者」の中には、「死ぬ権利」を主張するものの多い。
著しくQOLが低下し、現代医療では死を迎えるのを待つだけといった患者さんだけは「死ぬ権利」ではなく「生きなくてもいい権利」いわゆる「生死選択の権利・自由」を与えるべきであり、必要な法整備を早急に行うべきであると思います。
最後にこの患者さんが、常にICUスタッフに訴えていたことを書きます。
「治療法の開発」は望んでいない、「私が望んでいるのは安らかな死」です。
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