ケアノート
医療・健康・介護のコラム
[榊せい子さん]最後まで莫山らしく
「自然に潔く」を望んだ父
一昨年10月、84歳で亡くなった書家の榊莫山さん。同居していた長女のせい子さん(63)は、三重県伊賀市の自宅で、「最後まで自分らしく」を貫いた莫山さんに寄り添いました。「できることは少なかったですが、父の気持ちを尊重するようにしました」と振り返ります。
「家がいちばん」
最後となった展覧会は2009年3月、東京の百貨店で開かれました。会場へは父と母で出かけました。父は足が弱ってきていましたが、車いすは絶対に嫌。つえも人前で使いたくない。自尊心が傷つくんでしょうね。
東京に行くのも本当は嫌だったんです。水が合わないというか。2日目に熱を出し、翌日には帰ってきましたが、家に着くと元気になる。神経質なところがあって、「家にいるのが一番ええ」と。それからは、どこにも出かけなくなりました。
莫山さんは奔放な創作活動から「書道界の風雲児」と呼ばれた。居宅は緑に囲まれ、敷地約3000坪。人付き合いが苦手で、自然を愛し、庭をよく散歩した。せい子さんは離婚を機に2人の子どもと実家に戻り、以来約25年、莫山さん、母の美代子さんと暮らしていた。
父なりに書を続けていましたが、新しい仕事の依頼は受けなくなりました。父も母も「幕引きは潔く」と思っていたようです。
父は50代から糖尿病を患い、心筋梗塞で倒れてバイパス手術を受けたこともあります。朝昼晩と薬が欠かせませんでしたが、言わないと飲まないことが多くなりました。あまり言うとうるさがって機嫌が悪くなる。通っていた病院にも行かなくなりました。
今思えば、自分が自然に枯れていくのを待っていたのかもしれませんね。
消えるように
とにかく人の世話になるのが嫌いで、家族にも遠慮する。お風呂で母が背中流そうか、と言っても「ええ」と断ってしまう。頭を洗うのがしんどくなってからは、週に1回、理容店でシャンプーだけしてもらっていました。
食欲も落ち、横になることが多くなりました。それでも必ず母の通院に付き添いました。肝臓を患っていた母は毎日、近くの病院で注射を打ってもらっていましたが、車の助手席に乗って、くっついていくんです。父にとっては唯一の外出らしい外出でした。
母はちょっと面倒くさそうにしてましたが、父は私に「お母さんはあれで寂しがりやから、そばにおらんとあかんのや」。2人は一緒にいるとうれしそうでしたね。
両親とけんかもしましたがそばで見守りながら食事の支度をしたり、父が気持ちよく散歩できるよう庭を掃除したり、畑で野菜を作ったり。思いは、父が穏やかに過ごせるように。それだけでした。
10年10月2日夕、外出していた美代子さんとせい子さんが家に戻ると、莫山さんが心臓発作で倒れていた。救急車で病院の集中治療室に運ばれた。その後、容体は一度は落ち着いた。
病室には私だけ。父は意識があり、「そんなに悪いんやろか」とのんびり話してました。入院の準備をしようと、いったん帰宅すると告げ、病院を出たのが深夜。それが最後になりました。
帰宅した途端に病院から連絡があり、母らと駆けつけるともう意識はありませんでした。間もなく息を引き取りました。どうしてそばを離れたのか、今も悔やんでいます。
父を乗せた車は空が白み始めた頃に病院を出て、家に着いた時、ちょうど日が昇りました。結局、病院には一晩もおらず、早々に大好きな家に戻ったのです。
あまりにあっけなく、消えるように逝ってしまった。これが、父が望んでいた最期だったと思います。
母の死去
その5年くらい前のことです。父が原稿用紙を母と私に差し出しました。鉛筆で「遺言」と書いてあって、「葬儀なし、香典弔問辞退、僧いらず、家族だけで般若心経一巻唱えればよい――」と。霊きゅう車と棺おけを手配する電話番号まで記されてました。
自分のために、多くの方に時間を割いてもらうのが心苦しかったんでしょう。わがままやけど、優しいとこがあったから。遺言通りにしました。
美代子さんは昨年10月、84歳で亡くなった。書壇を離れ、たった1人で創作活動をした莫山さんを約50年間、支え続けた生涯だった。
母は大きな喪失感の中、自分も具合が悪いのに、父の作品を美術館に寄贈する準備などを全部やってくれました。母の生きる目標だったのかもしれません。亡くなる前に「もう、何も思い残すことないわ」と言っていました。
父と母には、死にあたっても意志を通す強さを感じます。寂しさも後悔もありますが、2人の写真を見たら、笑えてくるんです。どれもええ顔してる。今も、一緒に笑ってるはずです。(聞き手・古岡三枝子)
さかき・せいこ 1948年、三重県伊賀市生まれ。帝塚山学院大卒。中学生の頃から茶道を学び、裏千家正教授に。現在は自宅でお茶を教えている。著書に「榊莫山家の茶懐石のおもてなし」がある。
◎取材を終えて アトリエを案内していただいた。多くの筆や墨、すずりなどが生前のままで、莫山さんが庭で拾ったモミジやイチョウもあった。「捨てられなくて」とほほ笑むせい子さんは、これからも家を守っていくという。自然のままに老い、死に近づいていった莫山さん。その姿を見続けるのは時につらくもあっただろうが、「父は幸せだったと思います」という言葉に、長い年月をともに過ごした親子のつながりの深さを感じた。
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