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恐山菩提寺の院代・南直哉さんインタビュー全文(1)幼い頃から「死」を意識

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 日本三大霊場として知られ、毎年多くの参拝者が訪れる青森・下北半島の恐山。境内にある恐山菩提寺の院代(住職代理)を務める南直哉(じきさい)さん(54)に、死者とどう向き合うかについて聞いた。(野村昌玄)

南直哉(みなみ・じきさい)
 1958年、長野県生まれ。早稲田大学第一文学部卒業後、大手百貨店に勤務。84年に出家し、福井県の曹洞宗・永平寺で修行を積み、2005年から恐山に。著書に、「恐山」「語る禅僧」などがある。

 ――小児ぜんそくの発作で、幼い頃から「死」を意識していたそうですね。

 「3歳の頃から何度も死ぬのではないかという感覚を経験しました。呼吸困難になって、この先、死んじゃうのではないかという状態です。発作を繰り返し、自分が生きていることがあてにならないという感じが土台にありました。『死ぬ』ということがリアルな感覚なのですが、その正体が分からない。今の自分が不確かなのに、『将来の夢』のようなものを言えるはずがない。子ども心に『死とは何か』ということに関心を持ちましたが、大人に尋ねても誰もまともに答えてくれず、ずっと悩んでいました。そして、中学の時に出会った言葉に強烈な衝撃を受けたのです」

平家物語の「諸行無常」に衝撃

 ――どんな言葉ですか。

 「古典の教科書にあった『平家物語』の言葉です。『祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり……』の一節にある『諸行無常』の四文字が強烈でした。自分が考えてきたのは、これだと。百科事典で調べると、仏教の言葉なのだということを知りました」

 ――「諸行無常」という言葉のどの点にひかれたのですか。

 「私は小学生の時から、自分自身の中を探っていくと真ん中に確固たる核があり、その力で人は生きている、そういう何かがあるのだろうと思っていました。最近の言葉でいうと、『本当の自分』のようなものです。ところが、どれだけ考えても分からなかった。『人はなぜ生きているのか』という疑問に対し、理由はないということ。人が存在する根拠となる確かなものはないということを『諸行無常』という言葉は気付かせてくれました」

 「その後、高校時代には曹洞宗の開祖・道元禅師の言葉に出会いました。『自己をならふといふは、自己をわするるなり』という。自分の中を探していけば何かがあると思っていたけれども、それは間違いだというわけでしょう。「忘れる」ということなのですから、全く違う発想なわけです。道元禅師の著書も読みましたが、その強烈な力は、一言で言うと、思考に対する挑発力ですね。これをきっかけに、ずっと抱えていた疑問に対する答えを探して、仏教の専門書や哲学書などを乱読しました。難解でしたが、無理をしながら読みましたね」

26歳で退職、修行の場へ

 ――就職後、数年で出家したのはなぜですか。

 「大学卒業後、デパートに勤めました。ただ、働いているうちに苦しくなりました。仕事は嫌ではないけれども、一生懸命にできない。会社勤めをしながら禅寺に通って座禅もしていたのですが、熱心な座禅仲間からも『サラリーマンをするか、仏教の道を選ぶか、どちかに決めた方がいいよ』と言われました。職場の人からも、『あなたは何か考えていることがあるんでしょう』と気遣われるようになり、周囲にそう見られているならばもう無理だなと思うようになりました。世俗から離れなければ答えは出ないと思い、26歳でデパートを退職し、修行の場に身を置くことを決めました。ひょっとすると、生涯で一度出家するかもしれないと思っていましたが、あれほど早くするつもりはありませんでした」(続く)

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