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ケアノート

コラム

[諸橋泰樹さん]「後悔しない」誓った

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転院繰り返す母と1年

最近、澄子さんと巡った土地を再訪し始めた。「家に帰ると時間が止まったように感じる。しばらくは感傷旅行で時を過ごします」(横浜市泉区のフェリス女学院大学で)=工藤菜穂撮影

 フェリス女学院大学教授の諸橋泰樹さん(55)は、昨年11月、母の澄子さんを83歳で亡くしました。転院を繰り返す母親を男一人で看病する、あわただしい1年間でした。「『後悔しない介護をしよう』と誓いを立て自分を支えてきました」と話します。

40年間2人で

 僕が高校に入学するころに両親が離婚し、それから都内のマンションで約40年間、母と2人で暮らしてきました。学者としての僕の将来に、何とかめどがついたのが30歳過ぎ。僕は独身を続けていました。長年気苦労もかけたしと、親孝行と楽しみも兼ねて年に3回、2人で国内の半島や温泉を巡ったりしていました。

 母は、70代後半から食が極端に細くなり、どんどんやせていきましたが、病院嫌いだったこともあり、「年齢のせいだろう」と精密検査も受けませんでした。それでも、物覚えが悪くなり、ガスがつけっぱなしという事態も起きました。認知症の可能性も考え、一昨年11月、介護認定の担当者に自宅に来てもらったのです。担当者は一目見るなり「老人ではなく、病人です」。地元の病院に緊急入院することになりました。病名は不明でしたが、点滴を受けて栄養補給すれば、また元気になるだろうと思っていました。

 ところが3日後、澄子さんは呼吸困難に陥り、より高度な治療設備を持つ東京郊外の大病院に救急搬送される。大学のある横浜から2時間かけて駆けつけた諸橋さんは、「母は死にうる存在だ」と覚悟を決めたという。

 この時、僕は誓いを立てました。「とことんやる」「毎回会えるのが最後と思って会話を大切にする」「後悔しない」の三つです。その後始まった母の看病で精神的に参りそうになった時も、誓いを思い出すことで、自分を支えてこられた気がします。

 休職はせず、できる範囲でやれることをやると決めました。ある程度時間を自由に使える大学教員だったことも大きいかもしれません。

 初めは在宅介護を考え、準備しましたが、病状が突然悪化することがたびたびあり、結果的にはできませんでした。授業や講演、出張などの合間に病院に通い、食事の介助をし、体をふいたり、マッサージをしたりしました。その時、その時が最後の会話、と思えば、母をいとおしく感じることができました。「これまで大変だけど幸せだったよね」「元気になったら温泉に行こうね」みたいな会話ですがね。

 頻繁な転院生活が始まった。澄子さんは1週間で最初の病院に戻ったが、3週間後には再び危篤状態で大きな病院へ。病状が落ち着いた後、年末には一時帰宅。ところが誤嚥(ごえん)性肺炎の疑いで大病院に逆戻り――。翌年もいったんは老人ホームに入居したが病状悪化ですぐ退去、再び転院を繰り返し、6月、ようやく澄子さんの病気は、神経系の難病と診断が下りる。

 心残りが全くないわけではありません。「卵とバナナを買ってきて」と言う母に、軽い気持ちで「もう食べられない体になっちゃったじゃん」と返したら、何とも切ない顔をされてしまいました。僕の名前や勤め先を忘れることもしばしばで、「みんな忘れちゃったねえ」とからかうように言ったら、「うん」と素直に答えていたのも切ない思い出です。もっと優しくしてあげればよかったなあ。

 ある時、仕事が終わって病院に駆けつけたら、呼吸器がずれて目にかぶさったまま誰にも気づかれてませんでした。自力で直せない母の悲しさ、24時間一緒にいてやれない自分の情けなさで、泣きたくなりました。

 澄子さんは、世話をする人らににっこり笑って「ご苦労さま、ありがとう」と声をかけていたという。病棟で「癒やしの大矢さん(離婚後の姓)」と呼ばれ、好かれていたと、諸橋さんは後から耳にした。

「死」を教わった

 昨年11月27日昼、出張先の福井に、当時入っていた療養型病院から電話が入り、母の死を知らされました。その2日前の朝、病院に寄り、「福井に行ってくるね」と声をかけたのが最後でした。死に目には会えなかった。でも、それは三つの誓いを立てた時に覚悟していたことで、後悔はしていません。

 母は60代、70代のころから、自分の死に目に僕が会えないかもしれない、いつ死ぬかわからないみたいな話をしていました。きょうだいも子どももいない独身の「おひとりさま」である僕に対し、母は「死とは何か」の教育をしてくれていた気もします。弱い人間のケアや死について最後に教えてくれました。さすが、僕にとって、スーパーウーマンの母でした。(聞き手・京極理恵)

 もろはし・たいき フェリス女学院大学教授。1956年、東京都出身。専門はマスコミ論、社会学、女性学。東京・渋谷区の男女共同参画アドバイザーなどを務める。

 ◎取材を終えて 澄子さんの死を知った時、諸橋さんは「やっと僕のものになったね」と思ったそうだ。離婚のせいか、澄子さんが自分を捨てるのではないかという思いが、子どものころからなぜか消えなかったという。それでいて、決して容体がよくない状態と知りつつ遠方の出張に出たのは、死ぬ瞬間を見たくない気持ちもどこかにあったからと諸橋さんは話す。長年2人だけで暮らしてきた親子が選んだ、別れの形の一つなのだろう。

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