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日野原重明の100歳からの人生

介護・シニア

3・11の日を心に覚える

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2・26、玉音放送、阪神大震災…記憶に残る事件

 私の記憶で数字としていつでも出てくる事件としては、昭和11年(1936年)の2月26日の大雪の日に起こった日本の若手兵士による決死的革命行動である。

 次に出てくるのは、昭和16年(1941年)12月8日のハワイの真珠湾(パールハーバー)の米海軍太平洋艦隊基地への攻撃である。宣戦布告なしに行った日本海軍の特殊潜航艇による米軍戦艦への決死的攻撃と、航空母艦の機動部隊機からの爆撃が行われ、アメリカの戦艦アリゾナだけでも1177名の死者が出た。その遺体の大部は、今なお真珠湾の海底に沈没した船内に留まっている。

 次の記憶は、日本が無条件降伏をした時の昭和20年(1945年)8月15日の天皇陛下の玉音のラジオ放送を勤務中の聖路加国際病院のチャペル前のロビーで聞いた時、私には安心感と原爆で広島で14万人余、長崎で7万人余の死者が出たことの悲しみに無念な涙が出た。

 1995年1月17日の阪神大震災時には、聖路加国際病院院長職の私は、医師やナース、事務職、ボランティアを募って震災後の救助を約2週間行い、その時、身体的障害以外に心的外傷(トラウマ、PTSD)が多いことを学び、この救済への私的な活動の参与をした。

 この阪神大震災後の罹災者の援助活動で学んだことが3・11の東日本大震災と津波に対して被害者への援助活動や福島県にある災害拠点病院としての会津若松の竹田総合病院への間接的援助に医薬品や食糧、毛布の配布と血液透析患者に用いられる材料の供給支援を行った。同時に私が理事長をしている聖路加看護大学生及び大学院生が教官と共に、震災発生後1年間継続して慰問活動を行ってきた。

震災の4週間後に避難所慰問…女性の団結力に感動

 私自身は3・11の4週間後に宮城県南三陸町を訪問し、避難所を慰問して健康相談のほか、災害後に苦難を担いながら、どう被害者同士が団結して、苦難に耐えつつも、被害者間の絆を強くすべきかの指導を行った。避難所の女性群は男性群よりも強く団結して行動しようという精神力を見て、私は彼らに一層の励ましの言葉をかけ、女性群が復興力の要となる動向に接して、大きな感動を覚えた。日本の将来に対しても在来の男性優位、女性従位的な国民構造を女性優位にまで引き上げることが復興のため、また日本の先長い将来のために必要なことを痛感した。

 私は3・11後1年目を機に、以上述べた私の所感を被害者と死亡された多くの人々のご霊前に追悼の言葉を捧げたいと思う。

東日本の苦難…全国民の問題と考え、復興のために行動を

 最後に私が強調したいことは、東日本の受けた日本国始まって以来の最大の苦難に対して、これを東日本の住民だけの問題でなく、日本全国民の問題と考えて、共にこれに耐え、復興のために、中部及び西部日本、そして外国からの支援をもうまく統合して勇気を持って行動することを私は日本国民と外国諸国の方々に期待する次第である。

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日野原重明ブログ_顔120_120

日野原重明(ひのはら・しげあき)

誕生日:
1911年10月4日
聖路加国際病院名誉院長
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