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ケアノート

医療・健康・介護のコラム

[藤沢モトさん]棋士の夫へ献身の愛

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持病抱えつつ最後まで

藤沢秀行さんは書も好み、何度も個展を開いた。「夫の作品のそばに、私の生けた花をこんなふうに飾ったものです」(川崎市で)=米山要撮影

 囲碁棋士の藤沢秀行さんは2009年5月、83歳で亡くなりました。豪快な棋風で戦後日本を代表する棋士として活躍する一方、自由奔放な私生活を送った秀行さん。最期を支えたのは、60年近く連れ添った妻のモトさん(82)でした。「思うように生きられて夫は幸せだったでしょう」と穏やかに振り返ります。

 夫は80歳を超えても囲碁の研究を怠ることはなく、若い棋士を集めて勉強会を開催していました。ところが2008年6月、競輪場で転倒し、左脚を骨折して入院。退院したものの、11月に自宅で右脚を骨折し再度入院。口内の細菌が気管に入って起こる誤嚥(ごえん)性肺炎にもなりました。

 体力が落ち、医師から、腹部に穴を開けて管で胃に直接栄養を入れてはどうか、と提案されました。夫は「死ぬまでは生きる。死んだように生きたくはない」と聞き入れません。夫は他人の言うことには一切耳を貸さない性格です。私たち家族も本人の意思を尊重。最後まで延命的な措置は行いませんでした。

奔放な私生活

 結婚したのは秀行さんが24歳、モトさんが20歳の時。秀行さんは「独創的」と評される戦いぶりで頭角を現し、王座、名人などのタイトルを次々に獲得。だが家庭で見せる顔は違った。

 おとなしくしていたのは結婚して1年だけ。酒を飲んでは暴れて窓ガラスを割ったり、競輪にのめり込んで借金を作ったり。借金で一度は家を失いました。私も負けず嫌いな性格。「自分で決めた結婚なのだから、愚痴はこぼすまい」と腹をくくりました。周囲に助けてもらいながら裁縫など内職をし、3人の子を育てました。

 夫が家に寄りつかないことはしばしば。女性の家に行ったきり3年帰ってこないことも。私は40代半ばで覚悟を決めました。それまでも自宅で教えていた「生け花」を一生の仕事にし、自立して生きていく、と。指導者としての技術を極めるため、京都の学校まで東京から週3回、3年間通いました。

 そんな時、夫は私たちの元へ戻ってきました。アルコール中毒がひどくなり、大事な対局の前にもお酒を我慢できなくなっていました。治療を受けさせ、禁断症状で暴れる体に必死で取りすがりお酒を我慢させたことも。棋聖戦で勝ち続けるために、この時は夫も必死でした。

がんと3度闘病

 秀行さんは58歳だった83年に胃がんを患い、胃の大部分を手術で摘出。4年後の87年には上あごに悪性リンパ腫が見つかり、放射線治療を受けた。98年の現役引退後、2003年になって前立腺がんと診断されたが、投薬治療で乗り切った。

 05年4月、夫は自宅前で転んで頭を強打しました。助け起こそうとして私も脚を骨折。当時、3人の息子は既に独立していました。夫も私も足元がおぼつかない。入浴や外出時はホームヘルパーを頼み、嫁たちも手伝ってくれましたが、夫婦2人だけの深夜には、トイレに行こうとする夫を抱え上げることも難しくなってきました。

 08年11月、夫がその年2度目の骨折で入院した後、私も持病のため入院しました。その後、延命的な措置を拒否した夫は09年2月に家へ帰ることになり、夫の世話をするために私も退院を決めました。最後まで責任を持って夫を()たいと思ったからです。

 家に帰って安心したせいか、夫は少し元気を取り戻したようでした。私の手料理を食べたいと言うので作ったのが、かつて若手棋士たちを家に連れてきた時に必ず出していた特製コロッケ。「おいしい」と食べてくれました。

 残念ながら、夫は10日ほどでまた病院へ。私も体は楽ではなかったけれども、野菜の煮物などを作って、毎日のように夫のところに運びました。5月初め、大根の煮付けを少し口に含ませたのが、最後の食事です。

 亡くなったのは5月8日の朝。手を握る私の前で、夫は静かに息を引き取りました。とても穏やかな顔で、眠っているように見えました。

 〈窮屈な墓になんか入りたくない。瀬戸内海あたりに散骨してほしい〉。秀行さんの生前の希望に沿い、09年10月、山口県の周防灘に散骨された。

私もまた幸せ

 夫は私のことを、いつも「クソババア」なんて呼んでいました。ところが、亡くなる前の月のこと。私もそばにいるのに、長男を枕元に呼んで「かあちゃん愛してる。感謝してる」と言いました。直接言えない性格なのです。

 夫は3度のがんの闘病後、「戒名」を自分で考えていましたが、私にもつけてくれました。やりたい放題の夫でした。そんな夫に添い遂げた私の一生もまた幸せだったのではないか。「戒名」が書かれた紙を見ながらそう考えるのです。(聞き手・福士由佳子)

 ふじさわ・もと 1929年、新潟県出身。50年に藤沢秀行さんと結婚、息子3人を育てる。秀行さんとの日々をつづった「大丈夫、死ぬまで生きる」を2月に刊行予定。秀行さんは25年、神奈川県出身。77年から囲碁界最高のタイトル「棋聖」を6連覇し、「名誉棋聖」の称号も得た。

 ◎取材を終えて 「初めて見たときにピンときた。何かいい感じがした。(中略)自分と同じ波長を持つ、自分と同類の女性を見つけた、という直感だったかもしれない」。藤沢秀行さんが半生をつづった2005年の著書「野垂れ死に」で語られる、モトさんの第一印象だ。勝負師の直感で、この女性なら何があろうと自分とともに生きてくれると見抜いたのだろうか。激しい日々も穏やかに振り返るモトさんの姿に、夫婦の強い絆を感じた。

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