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脳性まひの小児科医・熊谷晋一郎さんインタビュー全文(1)厳しいリハビリにストレス

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 脳性まひで手足が不自由ながら、小児科医として外来診療に携わる一方、発達障害研究にも取り組む東京大学先端科学技術研究センター(東京・目黒区)特任講師の熊谷晋一郎さん(34)に、今に至る道のりを聞いた。(藤田勝)

熊谷晋一郎(くまがや・しんいちろう)
 1977年、山口県生まれ。出生時の酸欠で脳性まひに。東京大医学部卒。病院勤務を経て、同大先端科学技術研究センター特任講師。著書「リハビリの夜」(医学書院)で新潮ドキュメント賞。共著に「発達障害当事者研究」(同)。

 ――子どものころ、自分の障害についてどのように感じていましたか。

 もともとそういうものという感覚で、特につらいと思ったことはありません。生活はすべて、母が上げ膳据え膳でやってくれました。

 でもリハビリは大変でした。ふだんは自宅で毎日行い、定期的に施設に通っては専門家からの指導を受けました。親もリハビリに対しては厳しかったのでストレスはありました。

 当時は「電動車椅子を使うとリハビリをさぼるからよくない」という専門家の助言もあり、小学生の間は移動手段を与えてもらえず、自分ひとりで外出はできませんでした。

 室内では、腹ばいになって移動できるスケートボードのような乗り物を父が作ってくれたので、それは楽しかったのですが。

 ――学校生活はどのように送ったのでしょうか。

 リハビリばかりの生活から抜け出せるので、学校は好きでした。小学校と中学校は実家から近かったので、母が車で送り迎えしてくれて、休み時間ごとに「トイレだいじょうぶ?」と聞きに来てくれました。高校は遠かったので、母は私を学校に送ると、そのまま校内に待機して、家事をする時だけ帰っていました。

 最近は下手になってしまいましたが、絵を描くのが好きで、小学校では漫画クラブ、中学校では美術クラブに入っていました。高校に入ると勉強が面白くなり、生きていく中心軸がリハビリから勉強に変わってきました。リハビリの時間を削って勉強時間を増やしたので、リハビリのトレーナーに注意されることもありました。

 ――自分の将来は、どのように考えていましたか。

 小学生になったころから、もしも親がいなくなったら、自分はどうやって生きればいいのだろうか、という不安は感じていました。だからずっと、自分にできるものは何だろうかと考えていました。

 学校の教科では特に好きだったのが数学です。頭の中で自由に考えることができて、遊園地のような楽しさを感じました。それで高校時代は、数学者になろうと思っていました。今はパソコンばかりつかっているので、手で書くのはなかなか大変ですが、当時は暇さえあれば広告チラシの裏などに数式を書いていました。(続く)

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