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ケアノート

コラム

[河野博文さん]がんの妻と離れ野球

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単身赴任 勧めてくれた

今はカボチャやタマネギ、ジャガイモを育てている。「畑で汗を流す私のことも、妻は見守ってくれていると思います」(群馬県高崎市で)

 日本ハムや巨人などで投手として活躍した元プロ野球選手の河野博文さん(49)は2年前の夏、妻広子さんをがんで亡くしました。

 41歳の若さでした。当時、河野さんは川崎市の自宅を離れ、群馬県の野球独立リーグチームでコーチとして単身赴任中。「妻と離れて野球をする選択は正しかったのだろうかと、今でも考えてしまう」と話します。

 投手コーチに

 群馬県に拠点を置く「群馬ダイヤモンドペガサス」から投手コーチの誘いがあったのは2007年の冬。妻はその3年前に乳がんの手術を受けていましたが、骨盤に転移しているのが見つかり、抗がん剤治療を始めたばかりでした。再び大好きな野球にかかわりたい。でも、がんの妻を残して単身赴任などして良いものか、悩みました。

 「群馬の球団から誘われている」と打ち明けると、妻は「行った方がいいよ」と、あっさり背中を押してくれました。プロ引退から7年。すでに別の仕事に就いていましたから、変わらずに「野球選手の妻」でいてくれたことがうれしくて仕方ありませんでした。高校生と中学生の娘が妻のそばにいたので、安心していた面もありました。

 河野さんは、翌08年1月からコーチに就任し高崎市で暮らし始めた。試合や練習がない日に、川崎の自宅に戻る生活を送った。

 高崎と川崎

 球団の休みは月曜日。毎週とはいきませんが、日曜日のデーゲームが終わると、その足で川崎に帰りました。家に帰ると、妻は元気そうに振る舞っていました。でも、抗がん剤の副作用なのか「だるい」と疲労感を口にすることが増えました。中でも、髪の毛が抜けていくのは見ている私にとってもつらいものでした。

 しかし、妻が弱音を吐いたことは一度もありません。ウイッグ(かつら)を自分で探してきて、外出する姿には、「俺がしっかりしなくてどうするんだ」と逆に勇気づけられたものです。私ができるのは「これ以上悪くならないで」と祈りつつ、出来る限り洗濯や料理などの家事をこなすこと。肉じゃがやお好み焼きを作ったりしました。

 妻は、高崎まで試合を見に来てくれたことも何度かありました。彼女なら、これからもがんと折り合って生きていけるのではと感じました。だから、まさか、あんなに急に病状が悪化するとは思ってもいませんでした。

 09年7月中旬、河野さんは、遠征先の石川県で、広子さんの主治医から電話を受けた。がんが腎臓などにも転移しており、かなり厳しい状態だと告げられた。

 電話口の医師の言葉が、すぐに理解出来ませんでした。つい1週間前に妻と電話で話した時は、何も変わった様子がなかったからです。

 ちょうどシーズンの最中。チームに事情を話して戦列を離れました。病院に着くと、主治医の先生から「長くないと思います」とはっきり告げられ、頭の中は真っ白です。

 幸い、病室の妻は普通に会話ができる状態でした。いつものように「大丈夫よ」と笑顔を見せてくれました。私に出来ることは、そばに居続けることだけです。着替えたり、シャワーを浴びに帰る以外は病室で過ごし、「腰が痛い」という度に体位を替えたり体をさすったりしていました。

 4、5日たつと、妻の意識がだんだんとはっきりしなくなってきました。最後に交わした妻の言葉は「娘たちをよろしく」でした。

 入院から2週間後の8月2日の早朝、ベッド脇の医療機器の表示がいつもと違うことに気付いて、慌てて看護師を呼びました。医師からの臨終の告知を聞いた時、体から力が抜けるのを感じました。

 コーチ生活を終えた河野さんは現在、高崎にとどまり、仲間たちと農業をしながら、野球教室を開くなどの活動をしている。

 挽回不能の試合はない。長嶋巨人で「メークドラマ」を体験した私は、そう自分に言い聞かせて頑張ってきたつもりです。ただ、あの時、野球中心の生活への回帰を促してくれた妻の言葉を、真に受けて良かったのだろうかという思いは今も頭をよぎります。

 最後まで、前向きであり続けた妻でしたが、本当はくじけそうになるのを私に見せないようにしていたのではないか。そのことに、気付いてやれなかったのではないか。答えはいまだに出ません。

 人生の再スタートに農業を選んだのは現役時代に妻が食事に気を使ってくれたことが影響しています。不器用かもしれませんが、今、私に課せられた仕事なのだと感じています。(聞き手・赤池泰斗)

 こうの・ひろふみ 1962年、高知県生まれ。元プロ野球選手。駒沢大学卒業後の1985年、日本ハムにドラフト1位で入団。96年、巨人へ移籍し、セ・リーグ最優秀中継ぎ投手になる活躍をして、巨人のリーグ優勝に大きく貢献。2000年に引退。08年から2年間、「群馬ダイヤモンドペガサス」で投手コーチを務めた。

 ◎取材を終えて 「闘病生活も大変だったはずなのに、単身赴任の僕の食生活を心配してくれてね」。広子さんの思い出をしみじみと語ってくれた河野さん。世の中には、「自分は二の次でいい」という人がいる。病気の本人が気丈夫に振る舞う時、周囲の者たちはどう支えるべきなのだろう。高崎への赴任を選択してよかったのか、河野さんは今も考える。「思いやり」「気遣い」だけで解けない難しい問いが横たわっている。

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