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[杉良太郎さん]ベトナム支援、自然体で

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「芸能人なので、ボランティアについての話も聞いてもらいやすいという利点はありました」(東京都内で)

 「Happy Birthday Daddy(誕生日おめでとう、お父さん)」。ベトナムの子どもたちからのカードを、大切に保管している。首都ハノイの児童養護施設の支援を20年以上続け、里親を引き受けた子どもは43人。年2回ほど施設を訪ねる。

 「みんな甘えん坊でね。『お父さん』とまとわりついて離れないよ」と目を細める。

 「人に親切、慈悲、情け」が母親の口癖だった。その影響か、多くの国で寄付やボランティア活動を続けてきた。自国の文化を伝え、民間外交の役割も果たすのも芸能人の使命だと考えていた。

 中でもベトナムへの思いは強い。「長年戦争で苦しんできた国。素朴で純粋な国民性にも引かれた。日本はぜひこの国と交流を深めるべきだと、思っていたんです」

 1991年に日本・ベトナム文化交流協会を設立した。その後ハノイに日本語学校を建設。多くの卒業生が日系企業などで活躍中だ。

 仕事に定年はないが、実は27、28歳頃から、「老後をどう生きるか」について考え始めるようになったという。

 20歳で歌手デビューし、時代劇スターへ。「人気が頂点の頃は忙しすぎて、年1回は“爆発”です。海外で金を浪費し、派手に遊んで……」。人気など単なる現象に過ぎない、そんなものは要らない、という思いが募った。

 45歳の時、パーティーの席で突然「引退」を宣言したこともあったという。周囲に引き留められ撤回したが、仕事は徐々にペースダウンし、油絵を描いたり、作詞作曲をしたりと、好きなことをする時間を作るようになった。

 ベトナムへの支援活動を始めたのも40歳代半ばからだ。

 「ただ、つらいこともありますよ」。ぽつりと漏らした。「売名行為」と言われたこともある。私財を投じてきた結果、「お金がないから、時間と体を使っての活動です」。

 しかし今後も、子どものための活動に力を入れたいという。「国づくりは人づくり」という思いからだ。ベトナムの盲学校、高度な医療が必要な子どもなど、支えなければならない対象は多い。2007年からは「アジア国際子ども映画祭」を毎年開催。「子どもに自由に映像作品を撮ってもらうことで、私たち大人がその心を理解したい」

 ボランティアは生活の大きな柱だ。阪神大震災、中越地震に続き、東日本大震災でも現地入りし、炊き出しなどを行った。「長期的な視野で支援すべきこともある。何ができるか考えています」

 第二の人生を考える人には、「必ずしも好きでない仕事を頑張ってきたかもしれない。この辺で一度立ち止まり、本当は何をしたかったのかを考えてみては」という。

 「社会貢献だ、と力み過ぎると、長続きしない。好きなことなら続く。続ければ仲間の輪が広がり、人に教えたり、披露したりと、自然に社会貢献につながるものです」

 デビュー前の15歳の時、歌の師匠と初めて刑務所を慰問した。ただただ好きな歌を披露できるという思いだった。「これからも自然体で。だからこそ、長く続けられるのだと思います」(森谷直子)

 すぎ・りょうたろう 歌手・俳優。1944年、神戸市生まれ。65年にデビュー。「遠山の金さん」「新五捕物帳」など主演作多数。2007年、ベトナム政府から「特別友好大使」に任命。08年には外務省から「日ベトナム特別大使」を委嘱された。

 シニア世代にとって第二の人生に何をするかは大きな関心事だろう。円熟期を迎えた著名人らが、社会貢献活動、趣味、新たな出会いや挑戦などについて語る。

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