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[一般の部] 入選 「忘れられない出産」
谷 浩子 (たに ひろこ)さん
横浜市 40歳 ・ パート保育士
■ 「忘れられない出産」
二〇〇四年、不妊治療を経て待望の妊娠。長かった悪阻(つわり)も落ち着き妊娠七ヵ月目の安定期のこと、体調が悪く胎動も感じられなくなった為、近くの産婦人科を受診。
「心拍停止です。今すぐ分娩(ぶんべん)予定の大学病院へ行って下さい。」
と告げられる。
「一体何のこと?」
すぐに理解できなかった私。
「今回の妊娠はこれで終わりです」
やっと事の重大さに気付きすぐに夫に連絡。迎えにきた夫の車で分娩予定の実家近くの大学病院へ。
「娩出(べんしゅつ)しましょう」
と言われるが『出産についての本』、まだ最後のページまでよく読んでいない。
何が何だかわからないまま産声のない我が子の出産を迎えた。
夫に似た顔の小さな小さな女の子。
助産師さんに触ってあげてと言われるも、壊れてしまいそうで指先でチョンと頬(ほお)をそっと触れる事しかできなかった。
病室へ戻ると助産師さんが来て
「会いたい時はいつでも連れて来るので言って下さいね」
と言ってくれるが産後すぐに葬儀の打ち合わせ。
なぜ我が子の異変にもっと早く気付かなかったのだろうという後悔の念ばかり。今自分にできる事、亡くなった子にしてやれることが何も思い付かなかった。
そんな時、助産師さんが提案をしてくれた。産着を用意していたのならば産着を着せてあげるとか、棺(ひつぎ)におじいちゃん、おばあちゃんからの贈り物の玩具(がんぐ)などを入れてあげるとか……。私は言われるままの事を家族に頼んだ。そして妊娠中にお腹の赤ちゃんに話し掛けるのに使っていたオランウータンのぬいぐるみを棺に入れた。
病院内でのお別れでは小さな棺に入った娘の為に病棟の助産師、看護師の方々が集まり花を一つずつ入れて手を合わせてくれた。
退院後、私は最後に棺に入れたぬいぐるみと同じ物を手に入れ、娘の形見だと思ってずっとそばにおいていた。
それから私は再び妊娠し、あの大学病院へ入院。切迫早産で長いこと病棟で過ごす事となった。枕元にはオランウータンのぬいぐるみ。お腹の中の赤ちゃんを守ってくれるだろうとお守りにしていた。
出産の日。予定通り、帝王切開の手術が行われた。私の入院中の担当助産師はあの時の方ではなかった。正直、あの時の助産師さんが担当だったら心強かったのにと思っていた。しかし看護師長の計らいで手術の前日から担当があの時の助産師さんとなった。
手術には研修医の方二人が立ち会う事になった。助産師さんが研修医の方に私の入院の経過などを話した。
「上のお子さんを亡くされ二度目の出産となります」
私の方を見て
「お姉ちゃんがついているから大丈夫ですね」
と笑顔で言った。
私は嬉(うれ)しかった。戸籍上には何も残らない娘の事を「上のお子さん」「お姉ちゃん」と存在を認めてもらった事が、とにかく嬉しかった。
手術室へ向かう時間がきた。助産師さんがビニール袋を持って迎えに来てくれた。そしてオランウータンをビニール袋に入れ、私の枕元に置いた。
「一緒に手術室へ行きましょう」
「手術にぬいぐるみが立ち会うなんてすごいね」
家族が笑った。
手術は無事に終わり、元気な女の子が誕生した。
私の手術の後、助産師さんはすぐに病院を出たとの事。もしかしたら私の為に勤務を変えて立ち会ってくれたのではないかと後で気付いた。
退院の日、赤ちゃんに天国へ行ったお姉ちゃんの為に用意していた産着を着せた。
あれから六年がたとうとしている。
娘は元気に成長している。近頃は天国のお姉ちゃんの事も理解しはじめた様で、お供えをしてくれたりもする。
今思えば最初の子にしてあげられなかった事、あの時に助産師さんの提案がなかったら、きっと後悔していただろう。
そして私の二度目の出産、天国の娘も交えての温かさに満ちたお産となったのも、あの助産師さんのお陰だと思っている。
「Oさん、本当に有難うございました」
◆ ○ ◆ ○ ◆
第29回「心に残る医療」体験記コンクールには、全国から1329編の医療や介護にまつわる体験や思い出をつづった作文が寄せられました。入賞・入選した19作品を紹介します。 = 受賞者一覧はこちら =
主催 : 日本医師会、読売新聞社
協賛 : アフラック(アメリカンファミリー生命保険会社)
※ 年齢や学年は表彰式(2011年1月27日)の時のものです。
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