世相にメス 心臓外科医・南淵明宏ブログ
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震度5強の心臓手術
心臓の手術中でした。
東日本巨大地震。東京でも相当揺れました。今まで経験したことがない揺れでした。
大動脈弁置換術のまさに佳境。左心室の出口にある大動脈弁輪というところに糸をかけていました。拡大鏡の視野で手術をしていますから、ゆっくりと横揺れが始ったのはすぐにわかりました。
そのあと次第に揺れが激しくなり、部屋中が大きな音を立てだしました。
「人工心肺、手回しの準備」。人工心肺技師にそう指示しました。
心臓の手術中は人工心肺という機械が患者の命をつないでいます。これが何らかの理由で停止したら、患者さんは亡くなってしまうかもしれません。とにかく、人工心肺だけ確保できれば手術は継続できます。
手術の手は止められない
そう、私には手術を続けるしか選択肢がなかったのです。
「患者を置いて逃げ出すなんて良心が許さない!」などという判断を下したわけではありません。外科医はいったん手術を始めたら、昆虫のように、ただただ目的を遂行することだけに体は動きます。そういう習性なのです。
途中で止まることはありません。手術を遂行するために何かが立ちはだかったならば、それを取り除き、とにかく手術を進めます。
ただし、手は勝手に動くのですが、それを見つめる私の意識はいろいろと道草します。
激しい揺れに「直下型かな?いよいよ来る時が来たのか」。そんなふうに思った人も多かったのではないでしょうか。私もそう思いました。
「天井が落ちてきたらそれまでか。心臓外科医としては本望だな」。こんなふうにも思いました。
◇
揺れは次第に収まりました。
「震源地は三陸沖です」。平沼医師が手術室に来て教えてくれました。
「東京でもこんなに揺れたのに・・・」。こう思った人は多かったでしょう。つまり震源地付近ではもっと大変なことになっているじゃないかと誰もが思ったことでしょう。
平成の濱ロ梧陵
私は頭の中に、東北大学で津波工学を研究されている今村文彦教授の顔がすぐに浮かびました。
「貞観時代(9世紀ごろ)、三陸沖で大地震があって、大津波が仙台平野に押し寄せたんですよ」
「津波は『波』じゃないんです。大量の海水の移動なんです」
こう熱弁しておられた今村先生はどんな思いでこの瞬間を迎えておられるのかな。
◇
そう思っているうちに大動脈弁はしっかり固定され、切開した大動脈の壁が閉じられようとしています。
そのころ二回目の揺れが来ました。
「今度こそ直下型か!」
今度は地震予知連会長の島崎邦彦先生の顔が想い出されました。「日本列島では大地震が短い期間に連発する」。安政期、そして太平洋戦争末期、大地震は連発したとか。
二回目の揺れは茨城沖でした。次こそ房総沖か東海沖か・・・
そう考えているうちに、幸い手術は無事終了しました。
当たり前ですが、手術成功を祈っていた患者さまのご家族の心配は極限にまで達していました。
◇
今村先生、島崎先生、その他の数多くの「平成の濱ロ梧陵」はいましたが、想定外の巨大地震は、多くの尊い命を奪い去りました。
幸運にも災害を免れた我々には、社会再建に向けしっかりと歩み始める使命があります。
※濱口梧陵(はまぐち・ごりょう)は安政元年(1854)、和歌山県の広村(現在の広川町)を大津波が襲った際、稲の束に火を放ち、これを目印に村人を安全な場所に誘導させたと言われています。(参考:稲むらの火の館資料館http://www.town.hirogawa.wakayama.jp/inamuranohi/)
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28日にお世話になるものです。
よろしくお願いいたします。
今回の地震は歴史的な災害ですが、島根ではまったく被害がなかったため、テレビを見ていても現実とは思えないような感じでした。
しかし、学校全体で物資などを集め、被災地に送るという一致団結した動きをしていました。
同じ日本人、助け合うことはとても大切だと感じております。
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命を与えられました
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南淵明宏先生 震災より2週間が経過いたしました。 幸い、家族の安否の確認、ライフラインの確保や色々なことに追われ、地域の方々と協力し合いながら少...
南淵明宏先生
震災より2週間が経過いたしました。
幸い、家族の安否の確認、ライフラインの確保や色々なことに追われ、地域の方々と協力し合いながら少しずつ前へと歩き出している頃です。
そんな中、考えることがありました。この大きな震災の中、心臓手術など行われていたら一体どうなるのだろうか・・・
それは、母が昨年大変困難な心臓再手術を受け、南淵先生により助けていただき、命を与えられた一人だったからです。
6強の揺れの中、電気は切れ、雪の降る寒い日が続いていた中、全く火の気がなくなり懐中電灯とラジオを頼りにする日々を余儀なくされました。私は、揺れの中で、実家の母親のことが心配でたまらず、連絡が取れるまでは本当に心配しました。
実家は4日ほど停電し、その間厳しい寒さと在宅酸素が全く使用不可となり、携帯酸素を取り寄せる電話がやっと繋がってももうすべてなくなり、他県から取り寄せるものの、入る目処が立たないという状況でした。
昨年の、心臓手術を受ける前であったらきっと・・・この震災の状況は母の体には耐えられなかったかもしれません・・・そう思うと、先生にはこの震災をも耐え抜く心臓にしていただいたと改めて感謝いたしております。
言葉が足りませんが、命を与えられた一人として、今後、どんなに小さなことでも復興に向けてやっていきたいと思っております。
ありがとうございました。
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稲むらの火
Guy
地震時、私は入院中の患者で、自分の心臓がバクバクしているのが、今日は大揺れだなぁとはじめ、思っていました。それがこれが地震と感じるには少し時間を...
地震時、私は入院中の患者で、自分の心臓がバクバクしているのが、今日は大揺れだなぁとはじめ、思っていました。それがこれが地震と感じるには少し時間を要しましたが、廊下に出ると、手すりにしがみつく患者さん、支えるナースが見え、それから地震の激しさが身にしみて来ました。自分では浅はかな、「どうしてみんな外に逃げないのかな、財布を持って一人で非常口に行こうかな」などと考えていました。
たぶん私は稲むらの火の村人で、津波がくること(地震が大きいこと)の恐ろしさを知らない者だったと思います。だから、話して聞かせる暇がないときに、濱口さんが自分の稲に火をたいて人の注意を喚起し、結果的に人が退避できるようにした。稲むらの火の人形劇を見たときはうわべだけで終わっていた理解がはじめてとけていきました。
地震のときも手術は続けたらしいよ、と聞いたときには、正直よくあの揺れでできるなぁと思いました、と同時に、すがすがしさを感じたものです。外科医はその手を止められない、そこに濱口と同じような語らなくともかっこいい生き方を感じたのでした。
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