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ケアノート

医療・健康・介護のコラム

[柳町光男さん]母の孤独 救えず無念

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「遠距離」のつらさも痛感

「母はもともと話し好きな人でした。でも最後は、施設にいる同世代の人たちともまったく話さなくなりました」(東京都内で)=安川純撮影

 映画監督の柳町光男さん(66)の母、タマさんは認知症を患い、4年前に95歳で亡くなった。

 最後の数年間は茨城県内の施設で暮らした。東京に住む柳町さんは、せめて話し相手になろうと頻繁に帰省したが、「記憶や思い出を失っていく母の孤独感を癒やすことができなかった」という無念さが残るという。

 母の具合が急に悪くなったのは2001年、特別養護老人ホームで脚を骨折、手術のために入院してからです。

 当時私は月に1、2度、東京から母の元に通っていましたが、母が突然「人が殺しに来る」とか、「今、黒い服を着た人たちが通った」などと言い始めたのです。幻覚を見ているようでした。

 精神科で検査してもらった結果、タマさんはアルツハイマー型認知症と診断された。

 正式に診断されるとやはりショックでした。訪問する回数を増やしたかったが映画の製作もあって自由がきかない。茨城と東京ですから、「仕事帰りにちょっと」と立ち寄ることもできない。「遠距離」のつらさを味わいました。

はがれる記憶

 会うたびに、母の記憶が一つ一つはがれて落ちるように失われていくのがわかりました。まずは80代の記憶、次に70代といった具合に、新しい方からゆっくり記憶が消えていく。最後は私たち子どもや父のことも忘れました。悲しいことでした。でも、思い出を失うということはどういうことかを考えると、自分たち以上に、母はどんなに孤独なのだろうかと胸が痛みました。

 施設にお任せしている以上、私は何の役にも立たない。せいぜい、入れ歯を洗ってやることくらいしかできません。ただ、少しでも孤独を癒やしてやりたいと思い、できるだけ聞き役に徹しました。母はまだ残っている少女時代や自分の母親の思い出を話していました。

 記憶が失われていくのを少しでも防ぎたいと思い、私を含めて5人の子どもの名前を言わせたこともあります。次に行くと、2、3人くらい覚えていることもあり、ほっとしました。

 母の車いすを押して施設内を散歩していると、「死にたいよ」という悲痛な叫びが聞こえてくることがありました。ほかの入所者の方です。母はそんなことは言いませんでしたが、母の心中を思い、複雑な気持ちでした。

 柳町さんの両親は若い頃、小型トラックを7、8台所有し、食料品の卸業を営んでいた。社長は父親だったが、どちらかと言うと指示を出すのはタマさんで、女社長という感じだったという。

 1993年に父が亡くなった後、母は長男夫婦と同じ敷地内の別棟に一人で暮らしていました。しっかりした人でしたから、世話が必要になっても子どもには迷惑をかけたくないと、自分で施設を見学して回っていました。私も付き合わされたことがあります。

 80代後半になった97、98年頃。「貯金通帳が見つからない」と言って、夜中に部屋中をひっくり返して捜すようになりました。午前2、3時に東京の私に電話してきたことも。認知症の兆候でした。粗相をすることも多くなり、入所することになりました。

 地元に住む姉や兄、弟たちが定期的に通い、衣類の洗濯などの世話はしてくれていました。私もできるだけ帰省するようにしました。施設では、同じ世代の話し相手がたくさんでき、母は見違えるようでした。元気な姿に胸をなで下ろしていたのですが……。

「捨てるのか」

 タマさんの記憶はいよいよなくなっていった。柳町さんは映画の製作の合間を縫って何とか訪問する時間を作る日々だった。

 私が息子であることを時々思い出し、「東京から船で来たのか」と尋ねることもありました。船は戦前によく使っていた交通手段です。症状はさらに進んでいたわけです。

 ある日のことです。母の手を握っても握り返さず、腕や肩をさすっても反応がない。仕方ないと思い、「帰るね」と声をかけました。

 「私を捨てるのか」と声が返ってきました。きつい表情でした。本人が望んだとは言え、親を施設に預けた私にとっては、心に突き刺さるような一言でした。記憶が全くなくなってしまう寸前に出た最後の言葉だったのかもしれません。07年1月に亡くなる直前のことでした。

 世間には、自分の生活を変えてまで、両親のために在宅介護をしている人がたくさんいます。私も最後くらい、施設の近くにアパートでも借りて、そこから毎日通うくらいはできたかもしれない。だが、しなかった。その勇気もなかったのです。

 せめて話し相手になろうとしましたが、つい説教口調で話してしまうこともありました。認知症が進み、孤独な終末期の母に接しながら、結局は共感してやれなかったのではないか。そんな思いが今も残っています。(聞き手・西内高志)

  やなぎまち・みつお 映画監督。1944年、茨城県生まれ。早稲田大学卒。76年にドキュメンタリー映画を初監督した後、「さらば愛しき大地」「チャイナシャドー」「カミュなんて知らない」などを手がけた。85年の「火まつり」で芸術選奨文部大臣賞を受賞。海外でも高い評価を得ている。2001~03年度、同大学の客員教授を務めた。

  ◎取材を終えて 柳町さんは中学3年で実家を出て下宿住まいを始め、高校にも通ったという。社会人になっても、映画監督という「不安定な仕事」を選んだ。それだけに、タマさんに心配をかけたという思いが強かったに違いない。柳町さんは付きっきりで介護したわけではない。だが、介護したくても、仕事や距離が障害になって十分にできないつらさもあるのだ。柳町さんの淡々とした言葉から、そんなことを感じた。

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