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小さなことを1歩ずつ…音無美紀子さん

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「心を元気にする生き方」

女優 音無美紀子(おとなし・みきこ)
 1949年東京都生まれ。66年劇団若草に入団。68年日活「あゝひめゆりの塔」で映画初出演。71年TBSテレビ「お登勢」のヒロイン役で脚光を浴びる。主な出演作品に、映画「男はつらいよ 寅次郎紙風船」、舞台「女たちの忠臣蔵」「佐賀のがばいばあちゃん」、テレビドラマ「たんぽぽ」、NHK大河ドラマ「おんな太閤記」「独眼竜政宗」など。著書に夫の村井国夫氏との共著「妻の乳房」。
 38歳の時に乳がんの手術を受けた後、うつ状態になったが、「ママは、どうして笑わないの?」という長女村井麻友美さん(女優)の一言が回復のきっかけになったという。

 

 私がうつ状態になったのは、38歳で乳がんの手術をした後です。

 何でと思うぐらい大きな手術をいたしましたが、結果的にはその大きな手術をしたおかげで再発もなく、きょうまで23年間、こうして元気でいられるんですから、それは正しい選択だったんだと今思っております。

 当時、私は結婚もして、女の子を産み、3年後に男の子を産み、そして仕事でもいい舞台に出られて、自分は最高の幸せを得ていると、とても満足しておりました。

 だから当初は、手術は大変だったんですけれど、「悪いところは取って、そこから私は一歩踏み出すんだ。元気にならなきゃいけないんだ」と、すごい意欲満々で、入院中は、一日も早く退院するんだと言って、看護婦さんに「きょうはもうこれでやめましょう」と言われても、まだリハビリを続けるぐらいに頑張っていました。

 しかし、退院してから、一つ一つ「これもできない」「あれもできない」と感じるようになりました。子供が抱けない。子供が飛び込んできたら、手術した胸を避けなきゃいけない。一緒にお風呂に入ることもできない……。

 いろんな「できないこと」だらけで、「あんなに病院では、『こんな元気な患者さん見たことない』って言われていたのに、私、全然元気じゃない。病人なんだ」って思い知らされることがいっぱいあるように感じられました。

 しかも抗がん剤を飲んでいるうちに、だんだんいろんな副作用が体中に出てきて、「あれっ、自分は何年生きられるんだろう」というマイナス思考にどんどん陥りました。

 それから、強がりというか、見えっ張りというか、そういう自分の性格もあって、だれかに甘えて助けを求めることができないんです。

 その性格ゆえに、とうとう、だんだん眠れなくなって、食べられなくなっていきました。外の風の音が嵐のように聞こえたり、隣の家のピアノの音がもう真夜中まで私の耳元でしているように聞こえてきたり……。また、何か物を考えようとすると汗が出てきて、心臓がバクバクして苦しくなって、ハアハアしちゃって…。

 お料理を作ってみても味がわからなくなったりして、「私は何にもできない」というふうに思い始めて、どんどん地獄の底に落ちるような気がしました。

 当時、小学校1年生に上がったばかりの娘(長女で女優の村井麻友美さん)と、まだ少ししかしゃべれない息子がおりましたが、その子たちの面倒を見るのも楽しくない状況でした。「この子たちの将来を考えてあげることもできない自分は母親失格」と落ち込んだりしているとき、娘に「ママって笑わない。ママが笑った顔が見たい。ママが笑うとかわいいのに」ということを、ぽつっと言われ、その一言で、「笑わない自分」に気づきました。

娘の一言で「笑わぬ自分」に気づく

 当時は、あまりにも自分の顔がひどいので鏡を見ることができなかったんです。その一言で、「あしたから鏡を見よう。鏡に向かって、ちょっと笑顔をつくってみよう」って思いました。笑うってどうだったかも忘れている自分が、口角を上げる練習を始めたんですね。女優ですから、「写真撮ります」と言われると、いつも笑えたのに、何でこの口角が上がらないんだろう。

 それで、鏡で自分と向き合うようになって「あした口紅つけてみよう」とか、「やっぱり美容院へ行ってみよう」とか、少しずつ少しずつ「元の自分に戻ろう」って思うようになりました。子供たちに「ママかわいい」って言われるようになりたいとか、そういう小さなことから一歩ずつ一歩ずつ回復していったような気がしています。

 その当時、もう生きられないと思っていた自分のそばに、夫がいつもいてくれました。私が死ぬことをとどめてくれたのは、そういう娘の一言だったり、夫が辛抱強く支えてくれたりしたお陰だと今、感謝しているんです。

 主人は、子供たちの寝顔を私に見せて、よく「あと5年、君頑張って生きててごらん」と言いました。娘はマミちゃんというんですけど、「マミちゃんはもう中学生になろうとしている。生理になったときに、ママにきっと相談するよ。ママがいなかったら困るときが来るよ。あと5年、生きたら、息子はランドセルをしょって小学校に行くようになるよ。見たいでしょう。一緒に見ようよ。一緒に楽しもうよ」と言うんです。そう言われると「ああ見たい。じゃ、ちょっとやっぱり生きてみる」って、こう思うんですけど、また数週間もすれば、同じようなことの繰り返しです。

 主人は口を酸っぱくして、「じゃ、あと3年ね。頑張って。3年生きたら、3年分の成長見られるから、3年だけでも楽しもうよ」「はい」。それからまた数週間すると、また同じことを繰り返すので、最後には「もう1年でいいから、1年生きてくれたらいい。僕が後は育児ができるように、君に何でも教わるよ。育児も教えて、学校のことも教えて。区役所のこと、銀行のこと、全部教えて。1年で何とか覚えるから、1年生きてよ」と投げやりになってきたりして……。「1年でいいの」ってちょっとがっくりきたんですけど、「ああそうね、1年なら生きられそうだな」なんて。(笑い)

 そんなこんなで、まあそれから23年、このように頑張っております。(続く)

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