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シリーズ痛み 続・私の物語

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さかもと未明さんが語る (1) 告知でまず 「お金と仕事」 考えた

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さかもと未明さん
1965年、神奈川生まれ。89年、漫画家デビュー。作家やコメンテーターとしても活躍する。「ニッポンの未明」(扶桑社)「マンガ ローマ帝国の歴史」(講談社)、「神様は、いじわる」(文春新書)、「どん底力!」(マガジンハウス)など著書多数。2009年秋にはCD「人生(いのち)」で歌手デビューも果たした。


頼れる人はいなかった

 膠原病と診断されたのは2007年秋です。自分の体に対する抗体ができて、全身を攻撃してしまう難病です。症状の出方によって様々な病名がつきます。私の場合は、全身性エリテマトーデスと強皮症、シェーグレン症候群という3つを抱えています。

 受診したきっかけになった主な症状は、指先の血管が次々と切れて、指先が黒くなり、はれて痛いということでしたが、ほかにも色々ありました。

 その1,2年前から明らかに体調に異変が起きていました。発熱や軽いうつ、疲れている時には顔に紅いあざのようなものができていると指摘されたことも。咳がとまらず、体がだるくってちょっとの距離も歩けなくなっていました。

 正式な診断を受けたのは都内の大学病院です。手や足を何人もの医師が診察しました。医師たちの気の毒そうな表情から、「もしかしたら深刻な病気なのかもしれない」と感じました。そして、難病・膠原病と診断されたのです。でも、すぐには現実と思えませんでした。だって、私これまでもよく調子を崩しては病院に行っていましたが、いつも「問題ない」と言われていたぐらいだから、勝手に大病はないだろうと思っていました。

 昔、事故で脊髄損傷になった従兄弟がこう言いました。「本当に重篤なときは痛いとか悲しいとか思わない」と。告知を受けて、その通りだと知りました。すごくショックな時は、涙はだいぶ後から出るんですね。

 告知されてまず、お金のこと、今やっている仕事をどうまわしていくかを考えました。医師には、「入院治療も含めて今後を考えて欲しい」と言われましたけれど、血を吐いて倒れたり、誰かにうつす可能性があったりしない限りは仕事をしたいと伝えました。

 そのころ、仕事がとても充実していたんですね。マンガのお仕事だけでなく、自分で取材して原稿をかき、テレビも出演していました。3日に1度は締め切りがあり、収入もピークでした。

 そういった仕事を得るまでは、生半可な努力ではなかったです。漫画家としてデビューして、テレビに出ることもあるので、華やかなイメージを持たれることもおおいのですが、仕事だけに生きてきました。

 恋愛やグルメ、旅行といった楽しみは一切無し。心を許せる友人もいませんでした。

 仕事しかなかったのです。

 孤独でした。誰も頼る人がいなかった。そう思っていたのです。

 だから、告知を受けてすぐ考えたのが仕事なり、お金なりだったわけです。

どうしようもない悲しみに襲われて

 どうしようもない悲しみがおそってきたのは、病院からの帰り道。自宅にほど近い路地で、一人になったときでした。なぜ私が難病に?と考えていました。表現する仕事を持つ私を、神様がみて、「あなたはこれからも表現していく人なんだよ」という意味を込めて難病という印をつけたのかな、とも考えました。重い十字架ですが、書き手としては神様に選んでもらい、表現する上でプラスになるのかな、と。でも、やはり神様はいじわる、とも思いました。大学を卒業して家出して、結婚して、離婚して、一人で必死に生きてきた。イヤな仕事も引き受けて、休まず走ってきた。一度たりとも怠けなかった。なのになぜ?って。

 そして、気がつくと「お父さん、お母さん助けてください」と心の中で叫んでいたのです。不思議ですね。だって、ずっと一人で生きてきた、私はひとりぼっちと思っていましたから。

 父や母とはほとんど連絡をとっていない状態でした。お酒を飲むと暴れる父に、「お金がない」が口癖で、子どもたちの色々な夢を阻んできた母。その二人を頼るなんて。でも、そこで両親の名前を言えたことが、人を頼れたことがその後、闘病する上で救いになりましたね。

 両親と久しぶりに連絡をとり、しばらくは身の回りの世話をしてもらうなど助けてもらいましたが、今は再び距離を置いています。上手に甘えられなかった。ずっと疎遠だったのに、うまくやらなくちゃと思って、お互いに大きなストレスになっていたんだなと思います。

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